街中に増える廃屋、シャッタ-通り(老人は金を使うべき)
街中に廃屋なのかと思ったら人が住んでいた、ええ、あそこに人が住んでいるのか、草ぼうぼうで幽霊屋敷のようになっいる。この庭は相当奥が深い、もともと昔から金持ちの家だった。奥の方に古い井戸があり回りの人が子供がおそるおそる「水ください」と水をもらった話を聞いていた。ここに誰も人が住んでいるとは思えない、草くらい刈ってもいいと思う。だんだんゴミ屋敷のようになるかもしれない、こういうのは街のイメ-ジを落とす、どこでも今や街はシャッタ-通りになっているときこういう所があるとなんか余計に街がさびれたものに感じてしまう。他にも四軒は町内で廃屋になっているのを知っている。廃屋になると家が風通しなどで乾燥しないから急速にいたむ、それと今まで人が住んでいたところは人が住まなくなると一段と淋しくなるのが常である。物理的にも心理的にも廃屋はそうなる。廃屋というと山の方がめだっているが街にも増えてきたことは現代の経済状況を物語っているのかもしれない、地方の田舎町や都市だけではない、実際に日本全体は何となく衰退している、日本という国が単なる不況の影響だけではない、衰退している。高度成長期から日本は衰退経済に入っている。地価も下がっているのはそのためである。廃屋がありその土地が利用されないとかなると何か経済に活気がないからそうなる。家でも土地でも何でも利用することによって価値が出てくる。うまく利用しないものは土地でも金でも持つべきではない、土地をもっても金をもっても価値を生み出さないからだ。だから老人はただ介護のためにとかみんな多額の金を貯金しているのは経済を停滞させているのだ。
ただ老人は金がないと子供からも相手にされないという深刻な面はある。ところが私が知っている人は金がもっていても子供はその親に全く愛情がない、施設にいるがただ金のために兄弟が争っている。軽い認知症になっているからそんなこともわからない、これも不幸だなとつくづく思った。金をもっているからといってすべてが幸福ではない、不幸そのものの人もいる。金にかかわることのない自分だったが介護して身内が死んで金のことが実際に我が身にふりかかった。金を自分が百万単位で貸したりまた百万という金を実際に使ったことのない自分にとって金とは何なのだろうと真剣に考えるようになった。例えば一億という遺産が転がり込んだからどうなるのか、このくらいの金は百万人以上今は持っている。でももしあなたが自由に一億使いなさいと個人的に言われたら人は何に使うだろうかとなる。立派な家を建てれば一億は都会だとなくなるからそれほどの価値はない、でも家以外で一億自由に思い通り使ってみなさいとなるとやはり何に使うかとまどってしまうだろう。遊びで散財してしまう人もいるだろう。車に使う人もいるし骨董品に使う人もいるしいろいろだろう。
自分はそれほどの金ではないが百万くらい自由に使えるとなったとき使っていいと思ったのは庭作りだった。これは自然と密接に関係していて第二の自然を作ることだから非常に興味をもったのだ。庭があまりにも狭いのでどんなに使っても50万くらいにしかならないだろう。でも隣の土地がもし手に入ればそこに木を植えたり花壇を作ったりすたら面白いと思った。木は森のように庭をおおうし花壇は公共的空間として利用させる。回りの人も花を観賞できる。その土地にしても狭くて駐車場にもならないし自分の家しか利用価値がでてこない、土地が下がったとしたら前は百万と言っていたがまたそれより下がる、今は借りている人がいるから金が入るにしてもその借りている人が必要ないと言っているからあとは空き地になってしまう、すると自分の家でしか利用するものはなくなる。利用価値を生み出すのは自分の家だけなのである。もしその土地を活かす木を花壇作りすればこの辺りに潤いを与えることになる。金がここで価値を生み出すことになる。働く人も働く場を提供される。
公共事業の問題は働く場を提供することであり必要のためになされていないことが一番の問題なのである。必要でもない道路を作ってどうするのか、それよりも何か工夫がありえる、それは何かその場によって違ってくる。庭作り花壇作りなどはそんなに金がかかるわけではない、公園などになると公共事業として高くなるがミニ花壇ならそんなにかからないだろう。ともかく老人は金をもっていても消費しないということ、何か価値を生み出すためにも使わないことが仕事を作り出さない、経済が停滞させていることの大きな原因になっていることは確かなのである。次代を担う若者に金がなく老人にばかり金が与えられている。次代をになうものに投資されず介護とかに過重に投資されているのが問題なのである。80以上の介護にいくら投資しても生産的にはならないからである。老人がもっている金が消費や生産的創造的投資に向かえば景気が回復するというしきりに言う人がいるが確かにそういう一面はある。老人のもっている金は活かされていないことが多いからだ。死に金となっている場合が多いからだ。


ここは町の通りの家である。ここに人が住んでいると思わなかった。
一人老人が住んでいる、まるで幽霊屋敷になっている。前は金持ちの家だった。
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