2009年06月26日

弱者は常に食い物にされる(認知症(アルツハイマ-)の家族の悲劇)


 

●弱者は必ずその弱みにつけ込まれる

今回の姉の介護から死-死後とそこで経験したことは人間の根源にかかわることであり未だにその意味は探求中である。介護のことでは人間が弱者になるということはどういうことか痛切に経験した。姉は病気にもなったこともないし人にあわれまれるような弱者になったことがない、それが認知症になり見るも無惨なあわれな弱者になったことを延々と書いてきた。一転して人間はどんな強者も弱者に転落することをまざまざと見たのである。そして弱者になるとどういうことになるのか、弱者は同情されるかというとそうではない、むしろ弱みにつけこまれるということをつくづく感じた。特に認知症など精神的に病は社会的な偏見、差別になる。地域でもそうだし同情などされない、一人だけかわいそうだとあわれれんでくれた人がいたけどそのような人は例外的存在だった。むしろ弱者は食い物にされるということがかえって露骨にある。その一番いい例がそういう弱者を食い物にする宗教団体なのである。そういう弱者になると誰も相手にしないからそういう人たちが助けの神のように見えてしまうのである。宗教団体はこういう人たちを引き入れて勢力の拡大化を図る。別に同情などしていなのである。そもそも団体的にかかわるものはあわれみとか同情で動くことはないのである。一般的に人は必ずしも弱者に同情はしない、人は弱者に対しても優位に立つからあたかも福祉やボランティアでも同情して助けるように見えても内実は違っている。弱者、障害者とかかかわる人は必ず傲慢なものになっている。
どんなに謙虚な人でも弱者とかかわることは傲慢になる。

 
●弱者に対して謙虚になることは不可能に近い
 
「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい。そうでないと,天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに,憐れみの施しをするときには,偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように,自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなた方に真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかしあなたは,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)
 
こういうことはほとんどない、オレがオマエを助けているんだよ、オレに感謝しろよ、オレはこうしてオマエのために尽くしているんだよ、何もできないオマエのために・・・
こういうことが露骨になる。一見そう意識しなくても弱者に対する場合そうなってしまうのである。ボランティアが実際はほとんど偽善事業になっているのもそのためである。
 
私はあなたのような弱者、障害者の役にたってうれしい、何もできない自分だったけど役に立っている、だから私はあなたに対して傲慢になったりしない、あなたを私の力で助けるのではない、私が助けるのはただ無心な心で助ける、だからあえて報酬すら求めない・・・私があなたのような無力な弱者を助けることで強者となったりしない、・・・・
 
こんなふうにへりくだる人など皆無だろう。弱者に対して常に何かしてやっている、助けているという意識が知らず働いてしまうのだ。人間は弱者に接するとき必ず傲慢になってくる。医者が傲慢なのは弱者と常に接して崇められるからである。つまり弱者に対して謙虚になることは最高にむずかしいし不可能に近いことなのである。世話になった、恩になったということで助けた人も知らず傲慢になっていた。逆転してオレは助けてやっているという傲慢さがでてきてしまった。それでいろいろあとから要求して当然だとかなった。弱者に対して要求することが多くなりすぎたのである。
私はもともと何もできないものだったが今回何か助けになることでうれしいとかはならない、オレはオマエを今度はたすけてやったその見返りは求める、その貸しは大きいとなる。それは口に出さなくてもそうなっているのだ。そして助けられた人の負担は実際は信じられないほど大きいものになっていた。
 
●アルツハイマ-の家族をかかえて親戚にふりまわされた青年の悲劇
 
親がアルツハイマ-になり親戚に頼ったその子供がその親戚を恨んだことが自分にもわかった。その親戚に頼った結果、家族がふりまわされてしまったのだ。その子供はまだ20代だったから悲惨だった。こういうことがつくづく自分も経験して実感した。弱者は食い物にされる。誰も本当に同情したり謙虚になり助ける人などいないなのである。むしろ金で割り切り助けてくれるヘルパ-の方がどれほどいいかということを実感した。ただより高いものはない、ただで助けるというのはその負担はあとで何十倍にもなるからだ。私の所に最後に怒鳴り込んできた親戚は常識的に理解できない、弱者を踏みつぶして弱者を奴隷のようにしてその上に立つことで権力をふるう異常な人だった。それで今度世話にならないと言ってこちらで怒鳴りつけたら向こうから縁を切ると言って縁が切れた。しかし世話になるからと与えた金は今だ返ってこないからあの人は常識外の人であるから別問題になる。ただ今回弱者をかかえて経験したことはいかに人間はし弱者に対しては傲慢になるかを身をもって体験したのである。だから自らが弱者になり家族に弱者をかかえてみないとわからないことだったのだ。このことは別に私だけではない、世間に普通にあることでありめずらしくもないのだ。ただ弱者になることを経験していなかったからとりたてて言っているだけでありこれは人間の真実である。
 
人間は弱肉強食であり世界の歴史を見ればそれを証明している。弱者は強者に奴隷にされ食い物にされている。貧乏な国は富者の奴隷にされる。信じられない安い金で売春させられたり食い物にされるのである。キリスト教国である欧米自体が奴隷を容認していたことでもその矛盾を証明しているのだ。しかしここで注意しなければならないのは弱者はいつまでも弱者ではない、弱者は強者となり強者は弱者となるのも歴史であった。例えばイスラム圏は今は貧しいがヨ-ロッパの方が貧しくて今のアジアの女性のように信じられない値段で安く売られていた時代があった。それが逆転したのである。今は変化が激しいから一代で弱者(貧乏人)が強者(富者)になったりすることが見られる。つまり強者もすくに弱者になり弱者もいつまでも弱者ではない、強者になるのが神の摂理である。だからこそ強者は謙虚にならねばならないのだが謙虚になることが一番人間はむずかしいのだ。自分自体そうだった、かえって自分は弱者になり今回のことで謙遜になったから徳を積んだのは自分であり助けた方ではない、助けた方は傲慢になっていたのである。傲慢になった方はかえって徳の面では後退したというのも不思議だった。私は助けたんだからそんなことはないというがそのこと助けたということを意識して傲慢になったことが徳としてはマイナスとなり人格に影響したのである。それは神によみされることでも善行でもなんでもないのである。神側からみればかえって傲慢の罪が記されたということになる。だからいかに善行がむずかしいかこれでもわかるのだ。人が善行と思っているものはほとんど善行ではない、だからこそ神は行為に重きをおかなっかた。神は心を見ているというとき善行を慈善などに重きをおかないのである。なぜならそうではないか,善行したと言って傲慢な心にになったら結果的に神はその人を罰するとまでなっているのだ。ここまで考慮してボランティアとか善行を考える人はいない、ある意味で弱者に接することは傲慢の罪に陥るから危険だともなる。細心の注意深さが必要ともなるか実際は弱者にづけづけ踏み入ってくのが宗教団体のように普通なのである。それは個々人でもそうなのである。

だめだめ家庭
http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/mokuji/sougoumokuji.htm

 
このサイトは不思議だった。こんなふうに考える人もいるのかと何回も読んだ。ここでボランティアはただ序列意識を作る、弱者を支配するためのものであり全く価値を認めていない、その一面は確かにある。弱者を支配するためにボランティアはだめだめ家庭の人間にとっては一番いい居場所を提供していたとなる。普通の常識的に人間はだめため家庭の人間を相手にしないからである。
 

障害者施設放火で家主の志村容疑者「入居者と折り合い悪かった」
(ボランティアは偽善になりやすい)
http://musubu.jp/jijimondai38.html#fire

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