2009年06月26日

紫陽花(生き続ける死者)

 
今よりか幾年生きむ木植えて花見る日もあわれなるかな

紫陽花の今年も咲くもここにたつ姉はなかりし庭を変えしも

庭に咲く紫陽花花瓶にさしていけ姉の霊前に献げけるかな


庭のリホ-ムはまだつづいている。今度は瓦屋根が一部から土がでているとか、高い屋根なのによく見つけたものである。高くて機械を使わないと上れないとか機械使うと3万かかるとか困った。築40年になるとどうしても老朽化してくる。この家は昔風の家だから頑丈だからまだもつ、家も生き物だから換気だとかいろいろ家を長持ちすることが必要である。家は人が住まなくなると急速に老朽化して幽霊屋敷のようになるのも不思議である。近くの家がそうだった。あんなに廃れた家となる。人間はやはり土地でも何でも使用しないと価値が出てこない、だから土地を利用せずただ持っている地主は土地を取り上げられたのも一面わかる。南相馬市原町区の叶屋は大地主で知られていたが原町の中心部に土地をもっていてもシャッタ-通りになり土地の価値が激減してしまい今では没落しつつあるという。原町には親戚だった人が広い土地をもっていた。そこには古い樹々に囲まれていて街中では価値ある土地である。ただこれも住んでいない、遠くに住んでいてたまに手入れにきていても人が住んでいないからもったいない、活かされていないのだ。人が住まなくなると科学的に換気がなく湿ってきて家が急速に老朽化することもあるしその他何か科学的原因もある。それと廃屋になると本当に幽霊屋敷化するのは心霊的なものも作用しているのかもしれない、つまりそこには人が住んでいてその後に人が住まなくなった場所だから余計にそうなるのだ。無常がそこにしみついている。

 
姉が死んでからまだ一年にならないが近くはなってきた。死者はやがてただ思い出だけとなる。でも人は死んだからといって何にもなくなり忘却されるかというとそうではない、死者との生活はその縁故のものが家族がまだ残っていれば継続がある。庭の手入れをしていたのはいつも姉だったから庭にいた姉を思い出すのだ。姉も新しくなった庭をあの世から見て喜んでいるかもしれない、死者の問題をいろいろ考えるようになったが死者の問題は相当に深遠なものがあり人間は死んですべてが終わりにならない、それが今回の介護から死から死後のことでわかった。このことはまたあとで書くが死者がまだ家族の中で語られ地域などでも語られれば死者と生者の生が継続されているのだ。これはまた悪い面としても死者は死なない、強い怨念を恨みを残して死んだものは誰かにその無念を残してその恨みを晴らそうとさせるのだ。ええ、そんなことがあるのか、これは歴史でも語られてきたが自分にそれがふりかかってきたことで具体的にわかったのだ。死んでから真実が明らかになることが結構あるのだ。そして死者は誰かを別にその人が関係が薄いとしても怨念を晴らそうとする場合が現実にある。それが自分にふりかかってきたのでショックだった。なぜある人が強盗に襲われて殺されたりするのか、その人とは何の関係もないとされるのにそういうことがある。でも別に他の人でもいいではないか、なぜその人が殺されねばならないかとなると謎である。その人に恨みを晴らそうとする怨念がとりつき殺されたともなる。殺された人は何の関係もないと言ってもやはり誰かの死者の恨みの故かもしれないのだ。死者など死んでしまいば何の力もない、影響力もないと思われる。しかしでは靖国問題が英霊問題が延々と語られるのはなぜか?死者がどれだけ今に生者に影響しているかを物語っているのだ。だから否定するにしろ肯定するにしろ死者の重み厳然として生者にのしかかっていて現実に作用している、死んではいないのである。
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