仕事はやはりWORK(作品)の追求だ
頑丈さ、耐久性、美観はどうだとかその仕事にこだわる、ここにただプロックを積むだけでいい、機械的ではない、もっと頑丈に美観にもこだわる、庭作りなどは極めて芸術家的感性が要求されている。芸術家は画家でも詩人でも小説家でもその作品のできにこだわる。もっといいものにしあげるためにこだわる。レオナルドダビンチなどのモナリザは何年も描きつづけて未完だったように悠長な昔の時間の中で自分の納得いく作品を仕上げようとした。職人気質は今は何でも機械的規格製品をつくる事だから仕事へのこだわりがなくなっている。江戸時代は職人気質というとき自分の仕事にこだわっていた。つまり自分の納得のいく作品を作ることが仕事でありそうでないと売ることもしない、作っても捨てるということもある。それは大量規格生産でないからである。大量規格生産なら別にみんな同じなのだからそんなこだわりが生まれない、下駄一つとっても職人の名前がつけられた下駄や櫛などがあるように手作りの時代は一つ一つが文字通り-作品(work)であった。一つ一つにその職人の個性が刻まれていたのだ。そのためには一品作ったら一年くらい暮らせるとかならないとそうした仕事へのこだわりはうまれないかもしれない、納得いくものを作るにはそうなる。一つ一つが芸術品になってしまう。昔の製品が籠一つとっても今では芸術品になっているのをみればわかる。手作業だからその苦労は手間が大変なものである。大量生産できない仕組みになっていたからである。
ブロック塀が30年くらいたち一部から砂が出ていた。最初の作り方が悪かったのも原因していた。それで上の三分の一くらいをコンクリ-トでぬりそこを壁のように塗装することにした。造園の仕事から庭作りから外溝のコンクリ-ト固めからいろいろできるのだ。コンクリ-トのブロックをセメンで塗り固めるにしても壁をぬる経験がないとなかなかできないがこの人はやっていたから思い出してやっているという、壁塗りの仕事は最近は需要がなくいなくなっているらしい。昔からいろいろやっているからできる。これをこうすればこうなんだよとかこれはもっとこうできるとかいろいろ自分なりに工夫して語ってくれる。今どきなかなかこういう仕事はないだろう。家でも出来合いの注文して買うのでありここをこうしてくれとかこの模様はこれがいいとかいろいろ注文するの家作りはそんなにしていない、めんどうなのでできあいの買う、いろいろ注文するとなるとその度に金がかかりすぎるのだ。だから地元の棟梁とで建てる建て方は敬遠されるようになった。ただ今回は自分が金を出してこうすればいいとかこうしますかとか言われたので作らせるものと作るものとの対話が生まれた。その人はいろいろできるからそれも可能だった。その人もここをこうしたらいいとか自分もそれができるならいいとか言って作り上げてゆく、作る人も楽しんでやっているし注文する人も自分なりの欲求が満たされる。作る人は芸術家であり注文する人も何か作る人の面白さを工夫を活かしてやる。これはルネサンスのラファエロとかミケランジェロの才能を活かした法王ににている。その規模は比べようがないにしろにている。庭作りでも家作りでも芸術的センスが必要になる。でもそこにハ-ド的なもの技術の制限を受けるからなかなか個人的には自分の希望通りの家とか庭はできない、設計者と作る人と注文者が一体となり作った家の紹介などがあったがそれと規模は小さいにしろ同じだったかもしれない、ただこういうことは金をケチるとできにくい、ある程度の金の余裕がないと作る人も答えられないのである。