2009年05月27日

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)

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奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


---奥松島-----


波たたぬ松島暮れぬ桐の花

夏の山かなたやいづこ旅の駅

小鳥の音朝ひびきて桐の花奥松島の道をゆくかな

桐の花ひそかに暮れて奥松島心に残る島一つかな

島一つ常にし見えて安らぎぬ奥松島や桐の花暮る

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---野蒜---

広々と野蒜海岸朝開けハマヒルガオの風そよぎ咲く

広々と野蒜海岸開けたり朝の光に鴎飛びかふ

---鳴瀬町---

水濁り築港跡や暑しかな

老鶯や旧家二軒の門古りぬ

石巻河口開けて夏雲雀

石巻へ野の広々と夏雲雀

夏雲雀縄張り広くとりにけり

夏の海そそげる川の五つほど

松影の運河の道や黒揚羽

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鳴瀬川海にそそげる夏の日や鴎しきりに飛び交い暮れぬ


大きなる八大龍王の碑に祈る海上安全夏の日の朝

松二本古りて影なしこの通り古碑のいくつか夏草うもる

松一本古りて影なし道さえぐ夏の真昼に行く人もなし

この村の旧家二軒の門古りぬ松二本(まつふたもと)の影も涼しき

道さえぐ曲がりし松の残るかな夏の午後下がり人影もなし

北上川そい下り来て住吉の袖の渡りや夏の日暮れぬ

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仙石線では松島より地元の人にとっては奥松島がより松島的になる。ちょうど大塚駅からいつも見える島-松が島がポイントととなる。あの島が見えるところ景色が落ち着くのだ。今日はそこでおりて折り畳み自転車で石巻まで向かった。藤の花は散ったが桐の花は途中咲いていた。
この辺は落ち着く道だった。次に東名の駅に出た。そこからの眺めが良かった。泉が岳と不忘山も見えるとか泉が岳はわかるが不忘山はわかりにくい、少し離れて並んで見えるのがそうなのか、泉が岳は松島湾の海上から常に見える。5月だとまだ雪が残っている。一日でも旅である。一カ月くらい平気でどことなくふらふら旅していたことが今では考えられない、一日しか旅できない、でもやはり旅は旅なのである。これだけ旅してきたとなると常時旅に何ていたのだ。夏はやはり一番旅に向いているのだ。特に今の時期は一番向いている。

ここか野蒜海岸に出た。ここは広々として気持ちがいい、すでに砂浜にハマヒルガオが咲いていた。ここから鳴瀬川と吉田川の合流する河口にでた。しきり鴎が飛び交う河口だった。釣りする人がいた。「〜だっちゃ」という言葉を良く使う、だよね・・・という意味、最近仙台近くから家に手伝いにたまにきている人も・・・だっちゃ・・・という、おそらくこれは岩沼辺りまで使う方言かもしれない、阿武隈川を越えるとそうでもないかもしれない、でも白石でも使うとなると宮城県は一般的に・・だっちゃなのかな・・・相馬弁ではだべえ・・となるんだろう。
ここの河口で八大龍王の大きな碑があった。嘉永(1850)とあるから江戸後期である。この鳴瀬町からも鳴瀬川で船が利用されここに港があり米などが運ばれていた。だから海上安全の大きな碑が立っていた。八大龍王というのは海の守り神だったのか、これは目立つ碑だった。川を渡る向かい側は鳴瀬町でありここの河口には築港跡で有名である。

貞山運河
http://teizanunga.com/nobiruchikkouato.aspx
野蒜築港(絵)
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_03b7.html

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この港は壮大なものだった。鳴瀬川や北上川や阿武隈川まで運河で東北を結ぶ物流の拠点となる港だった。いかに鉄道ができるまえは川を交通路として考えていたかわかる。川を交通路としてどう活かすかが交通を発達させる基本だった。川は海と通じて海外までも通じることができるからである。その拠点がここだったのだ。

鳴瀬町は鳴瀬川から名づけられた。川の方が重要であるから川のそばにあるから鳴瀬町になった。もともと村や町の名があり川の名前となるのが普通である。吉田川はそうだろう。ここの河口には浜市村とかもあり浜で市が開かれていた。もともとそういう人が集る場所だったのだ。今回注目したのが白萩とか平岡、牛綱村とかである。ここは人もほとんど通らない閑散とした村だった。確かに家が密集しているが往還などとある幹線道路からはずれている。車もほとんど通らない静かな村だった。そこで目立ったのは松だった。それも古くなり大きな松だった。老松町とかあるがここがその名にふさわしい村、町だと思った。曲がった松が道をさえぎったままになっている。あれではトラックは通れない、トラックは通らないのだろう。松が主人公になっいる村だった。普通だったら車の通行に邪魔だから今ならあの松は切っているのが普通である。
それがあのように曲がったままのこしているのだ。曲松町とか曲がった松の名を地名としている所もある。その古い松の下に古い碑が夏草にいくつか埋もれてあった。文政(1820)くらいのもあった。

ただここが静でいいなと思ったが実際はそうではなかった。このすぐ近くに自衛隊の航空基地があって飛行訓練の爆音がすさまじい。そこでがっくりした。こんなところに忘れられたように村があったなと思ったけど突如飛行機の爆音が空をつんざくようにひびいて平和は乱されてがっかりした。夏雲雀の石巻までの野にさえづっていたがそれも飛行機の爆音でかき消された。沖縄でも風光明媚でも基地があり騒音で悩まされている。松島も風光明媚でも自衛隊の基地があった。これは戦前からありつづいている。これでは風流も破壊された。
芭蕉が「人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」ここは実際そういう場所だった。松島を出て奥松島になると淋しくなる。石巻で突然繁華な港になる地域だったのだ。今もその感じがあったが飛行機の爆音でかき消された。あんな所に住みたくないと思うようになったのが残念だった。

その後は北上運河沿いを延々と走った。ここも松が延々と影なす道で気持ちよかった。そして住吉公園の袖の渡りにでたが藤の花はすでに散っていた。北上川を下りこの川が平泉まで通じている交通路であることを再認識した。やはりある程度自転車など実地に見聞しないと地理の感覚は身につかない、今回は一日の旅でも内容が濃い旅になった。一日でもこれだけの旅ができるし相馬⇒仙台⇒石巻は交通の便もいいし奥松島でおりても石巻まではかなり近いことがわかり一日の行程として結ばれていることを実地に走り納得した。福島県は地理的一体感がない、阿武隈山脈にさえぎられ、会津は交通の便が悪く日帰りでは行きにくい、宮城県は日帰りコ-スであり特に海岸の石巻まで交通で一体化していることがわかる。
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