
庭に咲く芍薬あまたそを手折り霊前に献ぐ姉の笑いぬ
人間が死ぬことは実に不思議である。死んだらどうなるんだろうとかいろいろ言うが死者はその人の想像の産物でしかないというのも本当かもしれない、死者はその人が想像すればそのようにある。死者は死んでも一番思い出深いところにしばらくはいるみたいだ。その思いで深いところは家なのである。庭に芍薬一杯咲いた。姉はよく認知症になってからも庭の手入れをしていた。そういうことはできた。花も一緒に見ていた。花の美しさはまだわかっていたのか、姉は花を良く見ていた。だからその庭の花を霊前に献げることはふさわしいことだった。普通は店で花を買っているがそれよりも庭に一杯咲いた花を献げることはにつかわしい。姉もさぞかし喜んでいるだろう。姉は家からいなくなったけどやはり以前として家にまだいつづける。
「庭に芍薬一杯咲いたよ、こんなに咲いたよ、見ろ」
「う、きれいだな、いつも見ていた花だ、私はいつも庭の手入れしていたからな」
まだこうして死んでも家には死者の思い出が濃厚に残っているからその生を継続している。
やはり施設でも病院でももちろんそうだが家に帰りたいというとき人は一番思い出深いところに帰りたいのである。施設が会社と思っている男性は会社が一番思い出の場所だからそうなった。女性の場合は家なのである。ともかく死者とは思い出だけになってしまうのだ。
姉は性格的に陽気な快活な人であった。それが認知症になり暗くなってしまった。人もよりつかなくなった。で
も死んだあとを想像すると芍薬の花の前でその顔は輝いている。一杯の芍薬の花がその顔に反映して輝いている。そこに曇りはない、生前より一層その花は輝きその顔も晴れやかにその花の前に立っている。これもただ想像でそう思っているのかもしれない、でも正直人間はつくづく認知症であれ終末期の延命治療などで寿命を人工的に伸ばすのはその人にとって幸福とは言えない、余りにも悲惨なのである。それより死んだあとの方が想像するだけでも死んだ人は幸福に見える。事実、死んで天国に行った人は不幸ではない、最高の幸福の世界に入る。聖書でもそのことが書いてある。自然は今以上に本当に曇りなく輝いている。あらゆるものがこの世で見たものより輝いている。この世にあれば自然が美しいと言っても様々な悪やら罪やら公害やら騒音やら人間界の活動で汚されているからだ。天国には全くそういうことがない、だからその輝きは想像を絶するものになるのだ。もしそういう天国に行くとしたら今の生よりそれも認知症とかなった延命治療で寿命を伸ばすより早めに天国にあの世に行った方が幸福だとなる。ただ逆にあの世は地獄もあるがそこに行くとしたら最悪になる。この世より最悪である。悪人にとってこの世の方がずっと住みいいところなのだ。この悪人はこの世では最大の善人になっているからだ。人は死んでもやはり残された生者としばらくは思い出として生きていることは確かである。