2009年05月21日

菖蒲の季節(2)(相馬市の城のお掘り)

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(庭)

新しき石生き生きと夏の山

朝眩し夏白菊やつばめ飛ぶ

老人の杖つき石に菖蒲かな

旧街道日立木回りシャガの花

日立木の社の古りて菖蒲かな

松並木朝相馬へ桐の花

街道の残れる松や菖蒲かな

黄菖蒲にゆうたり近づく錦鯉

城下町街中の墓地シャガの花


街道の残れる松に夕日さし八重桜のここに散るかも

城跡のお掘りに映えし黄菖蒲や大手門は滴水瓦




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菖蒲というと普通は紫の菖蒲をイメ-ジする。黄色だと黄菖蒲になる。紫の菖蒲だと旧街道ににあっている。街道だった名残りの松も残っている。老人が一人杖をついて歩いている。短歌とかは特に弱さを歌う時、作りやすい、俺は強いんだという人はそもそも短歌を作れない、だから病気になったとかすると意味深いものを作れる。日頃の健康ではない、別な世界を見るからである。紫の菖蒲は旧街道にあっている。日立木を通り松並木を通り相馬の城下へ入る。その間に桐の花も咲いていた。街中の墓地にはシャガの花が咲いていた。墓地などにはシャガの花がにあう。今日は歯医者の帰りに城跡のお掘りをまわった。黄菖蒲が咲いていた。赤い錦鯉がその黄菖蒲に映えていた。大手門で気づいていないのが大手高麗門となっていて滴水瓦というのを使用していることなのだ。ここに注目する人はまれだろう。これはインタ-ネットでたまたまでてきてわかった。インタ-ネットは郷土史研究に相当役に立つ、結局今頼りにしているのはインタ-ネットだからだ。図書館で悠長に調べている時間がなくなったのである。図書館で調べたりできるのは相当な暇人であることがわかった。キ-ワ-ドで調べることができないから相当にめんどうになるのだ。何かを書こうとするとき必要なことはその分野の情報を蒐集して参考にすることが必ず必要になる。それを本からすることは手間がかかりすぎるのだ。
要するにどんな学問も手間である。才能がなくても手間をかければ誰でもある分野に詳しくなれる。郷土史でもそうである。これも手間なのだ。あることに詳しくなるには手間が必要でありあらゆることに詳しくはなれないのだ。何故なら一人の時間は人生で限られていたらである。 

今日は週一回のお手伝いさんが掃除に来る。この人も60越えているからヘルパ-はできないという、重度の人をみるヘルパ-は体力のある人でないとできない、それで知り合いの人もやめたというのもわかる。軽い家事ならできるがその他は無理である。でもお手伝いさんは我が家に必要である。そのあとはヘルパ-になる。ヘルパ-になると金も何倍もかかる。それだけきつい仕事になるからだ。金持ちは一日一万とか払っている人もいる。介護も金がかかる。有力な親戚とかなければやはり金になる。ただ金がすべてかというとやはりきつくなればいくら金をもらってもやりたくなるのが人情である。介護は負担が大きすぎるのだ。それでも認知症の介護よりはいいとなる。認知症の介護は最悪だったからだ。ほとんど心に余裕がもてなくなるから辛かったのである。正常であればなんとかお手伝いさんやヘルパ-を雇うことができるが認知症になると人を嫌ったり正常な人との会話ができないのだから雇うのもむずかしくなるからだ。
相馬市と南相馬市(原町市)はかなり雰囲気が違う、紫の菖蒲とかシャガの花とかにあうのは城下町の相馬市なのである。松並木の道があるからあそこは昔の街道を偲べる。
 


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相馬藩−大手高麗門は滴水瓦
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

この記事へのコメント
とても素敵な写真ですね。
黄菖蒲と紫菖蒲では印象が全く違いますね。
どちらが好きかと問われれば、凛とした落ち着いたイメージのオーソドックスな(?)紫菖蒲
の方が好きです。黄菖蒲は珍しいと思うのは私だけでしょうか…?お花は好きなのですが、私は華やかで人工的な印象のタイプよりも、可憐で質素で野道に逞しく咲いているような花に目がいきます。1番好きな花は「チューリップ」です。

<要するにどんな学問も手間である。
確かに手間がかかりますね…。でも、今はインターネットがありますので助かっています。
情報の多さに惑わされない様に見極めないといけませんが…。

<正常であればなんとかお手伝いさんやヘルパ-を雇うことができるが認知症になると人を嫌ったり正常な人との会話ができないのだから雇うのもむずかしくなるからだ。

認知症介護で、相当な御苦労をなさったのですね。今、商店街や株式会社、有限会社、小中学校生、町内会など、ありとあらゆる地域の皆さんにも認知症を理解しサポーターになって頂こうと、普及活動が活発に行われております。
認知症は対応だけでも、自分自身が相手に合わせて折れないといけない柔軟性も必要ですので、心の持ち方が何処まで持続できるか葛藤の連続かもしれませんね。私が認知症の方を「愛しい」と思える根拠や理解力と人様のそれとは違いがありますので、価値観を押し付けずに、その方に応じたペースで理解を深めて頂けるように務めて参ります。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月08日 21:01
>商店街や株式会社、有限会社、小中学校生、
>町.内会など、ありとあらゆる地域の皆さんに
>認知症を理解しサポーターになって頂こうと>、普及活動が活発に行われております

認知症についてはまだまだ理解していない人が多い、実際に家族でかかえてみないとこの病気はわかりにくいですから、幼なじみとか子供のときからつきあって親しくしていた人もよりつかなくなった。一言も声もかけてくれない、そのことが本人にとってもはたから見ても悲しかった。
何もしてくれなくてもいいから元気かいくら一言声をかけてくれれば喜んでいたのにそれすらしない、入院ししてからも一回も見舞いにも来ない、やはり知的障害者になることは弱者になることはこういうことになるのか、偏見、差別でありそういうことは身をもって体験した。そういうことで障害者とか介護する人と共感することができるようになった。人間どんな優秀な強い人でも老人になるから弱くなるから人間は弱いものだということを知っておく必要がある。でも強い健康な問題がないときは人間はそういうこと考えない、つくづくまざまざと身近でそういう体験をするとこんなに人間は弱いものかと自覚されました。認知症について理解させることも知らない人には確かにむずかしいです、地道な努力が必要なことはわかります。
Posted by プログ主(小林) at 2010年03月09日 11:04
人って、良い時はチヤホヤして、悪い時は離れてしまう、とっても身勝手な生き物だ思います。私の父は自営業で成功していた時は親戚にも他人にも大盤振る舞いをしていました。父も母も、御馳走はみんなで分けて食べる様な人でした。父が蒸発して母が邸宅を売却した時は、親戚や赤の他人達は高価な品物を欲しがり持ち帰りました。当時、私の両親をチヤホヤしておきながら、父がいなくなり亡くなってから、彼らは180度態度を変えてしまい、利用価値が無くなった時点で離れて行きました。父の通夜には父が自分で作った梅酒まで持って帰ったり、高価な品物も持ち帰っていきました。母もお人好しでしたから。その後は、何の音沙汰もなく手のひらを返されました。私も、昔は「社長の娘」でチヤホヤされました。だからと言って、高慢な態度をとった事はありませんが、やはり掌を返されました。だから、差別や偏見や良い時しか集まってこない人が嫌いなんです。ましてや、知的障害者や認知症など御本人や御家族の責任ではありませんから。私は、偏見や差別と闘います。
小林様の貴重な経験も宝物に、相手が例え同業者だろうが、世俗と闘います。小林様やお姉様が味わった屈辱を味わう人が減少する様に、私は「認知症の人と家族の会」や組織と一緒に闘います!見守っていて下さい!
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月09日 15:35
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