2009年05月20日

奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)

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奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)




 
朝光る海や桐咲く奥松島

島一つ奥松島や藤の花

夏の海荒れてゆるるや小型船

初夏の海にい出るや島二つ 


静けさや石に落ちなむ桐の花

老鶯や茅葺き二軒船泊まる

老鶯や年金暮らしの島の人

老鶯や船待つ島の暮らしかな

老鶯や船の巡りぬ島二つ

金華山鮎川に仰ぎ夏つばめ

三陸へかもめ飛び行く夏の夕

夕暮るる小網倉小積藤の花

夕暮れや牡鹿の浦々藤の花

浦々に夏の夕日や牡鹿かな


 

 

灯台に老人寄りて語るかな小舟さしつつ夏の海荒る

網地島灯台一つ老人の昔を語る夏の海荒る

文化の碑もあり古りぬ網地島細き路地行き老鶯鳴きぬ

網地島細き路地行きその辻に菖蒲の咲きて一人逢うのみ

大きなるかたつむり二つ殻拾ふ夏の昼下がり網地島の道


わずかなる土地を耕す島の人波のひびきて夏の海見ゆ

島の中やはり空家や夏の日に草むし淋し誰か住みなむ

住む人の変わらざるかな網地島阿部氏の墓地や夏の日暮れぬ

夏の夕牡鹿の浦々波静か藤の花垂れバスの行くかな

 
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  (網地島にて)
 
石巻から船で田代島から網地島に向かった。途中田代島の大泊に船が泊まったがそこに二軒の茅葺きの家があった。前はみんな茅葺きの家だったのだろう。田代島も網地島も江戸時代から人が住んでいた。網地島には文化時代の金比羅の碑があったからだ。網地島におりて一時間くらい折り畳み自転車で走った。というよりは島特有の細い道なので歩いた。一すじの道を行くと灯台があり激しく波打ち寄せる岩場に出た。その灯台により一人の老人がいた。しきり小舟をさして漁のことを言っていた。
 

「私は昔は海で働いた、外国にも行った、今は年金暮らしだよ、妻と二人」
「島には若い人は今は住まないでしょう、老人が多い」
「あの舟見ろ、網で魚とるんだよ、あんな舟でも三百万くらいするんだよ」
「ええ、そんなに、大変だ、今は魚とれなくなってますから」

この老人はなぜかその小舟をさして話する。相当気になっいる。おそらく知り合いの人がのっているのだろう。この島ではたいがい知り合いである。墓地はみんな阿部一族だった。こういう島では他から入る人はいなかったからだ。ここからは金華山がまじかに見えるし鮎川も対岸であり船ですぐつく。
 

「この辺では昔鯨とれたでしょう」
「鯨は今日のような波が荒いと来ないんだ」
「波が荒いと来ない」
「波が荒いと魚もとれない」
「波が荒いとだめなんだ」


確かに小型船で来たからかなり波にゆれた。相馬の松川浦でも魚がとれて売りに来るの買っているけどしょっちゅう海が荒れてとれないというから海の漁は天候に左右される。それでシケているという言葉は海で漁をする人からもたらされた言葉だった。シケる荒れるだからである。
ここの昔を考えるとやはり魚がとれないと畑もわずかに耕している人がいるけど米もとれないから米を買う必要がある。島の暮らしはなかなかわかりにくい、でもここには文化や文久の碑があったから江戸時代から人が住み暮らしがあったのだ。鮎川は鯨で有名だからそれで人が集ったことはあるし遠洋漁業で稼ぎ年金暮らしになった老人が島に住み着いているのもわかる。

「廻船業をいとなむほどの者ならば豪放闊達でおそれ知らぬ持ち主でなければならなっかった。その気宇を失ったときはどのうように栄えてもたちまちにして滅びるものであり廻船業の栄枯盛衰はじつにはげしいものだった。」海に生きる人々-宮本常一
 
海で暮らす人は平地で山で暮らす人は気質的にも相当違ってくる。波のゆれるなかで常時生活している人、安定した平地や山で暮らすのはそもそもそこから違っているからだ。これは文学的に外部から推測しても実感は出ない世界である。日本人の気質として山が遠いからヤマトが国名になったけど回りが海に囲まれているのだから海人の性格も深く混入されている。海彦山彦であるが海彦の国でもあったのだ。
いづれにしろ島の暮らしは陸地の暮らしとはかなり違っている。そこが一つの小宇宙となってしまう。だから人の存在感はその小宇宙のなかで限定され存在感をもつのである。でも病気になったりしたら困るだろう。ここにも医者はいるらしい、・・・医院とかの車が走っていたからだ。外からたまに訪ねるにはいいが島は一種の牢獄みたいになってしまうのだ。これは島だけではない、どこに住んでいたってそうなってしまう。「町は極めて狭く大男一人ふさがれば犬も通れぬような気がする古風な家がわずか五六十軒ばかりある」荻浜を啄木がよったときの感じをうまく表現している。古風な家とは田代島の大泊の茅葺きの家が港にあったのだ。荻浜だけでなく島はみんなこんな感じになる。何しろ狭いからそうなる。つまり島では人はみな大男になってしまうのだ。人があふれているところでは人はみんな小人になっている。人は人の中に埋もれて存在感がないのである。
今回もやっと一日だけここに来れた。ここに来たの始めてだった。東北では島はまれである。こうして外海に接してある島は田代島と網地島くらいである。奥松島の島は島という感じがしなかったからだ。つまり内海にある島であり島という感覚がもてない、陸地の延長のように見えたからである。この二つの島は島らしい島なのである。

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網地島から船で鮎川に渡るとすでに夕暮れであったが燕がしきり飛んでいた。鴎も牡鹿半島から三陸の方へ飛んで行った。気仙沼まで一回自転車で行ったことを思い出したからだ。ここからバスが出ていたので助かった。金華山は東北では江戸時代の碑があり明治にも東北の人が相当来ていたのだう。なじみのある参拝する島だった。鮎川からバスに乗った人は一人である。ずっと一人しか乗らなかった。でもあそこでバスがないと泊まる他なく不便になる。バスはやはり必要なのである。、土日はのる人があるのだろう。第一バスで5時ころ石巻に出ても帰れなくなるのだから乗らないことはわかる。旅にでも行くならいいが普通は往復できないのだから乗らない、途中小網倉はか小積とかにとまる。まるでただバス停は地名を記憶させるようにとまる。それでもこの辺は浦々がつづき波静で景色がいい、荻浜には明治時代、北海道からの定期船が通っていた。そこで啄木が荻浜により短歌を残した。明治時代はまだえと時代の延長で結構船を使っていたのかもしれない、北海道まで汽車で行き青函連絡船の時代もつづいたから船は重要な役目を果たしていたのだ。支倉常長の航海などが松島とか牡鹿半島の入江から出たことは納得がいく、必ず外洋への航海には内海が必要でありそこから外洋へ船を出して行く、船を作る技術も気仙大工とかに培われてあった。宮城県の松島と牡鹿半島、三陸には入江が多いのだ。だから海の文化が東北で太平洋側であった地域だった。ただ海は今も危険であり江戸時代でも遭難した船のことがいたるところで記録されている。不思議なのは伊達藩で仙台から福山まで船が出ていたことが記録されている。伊達藩は大きいから瀬戸内海まで交流があった。
 
次は石巻の袖の渡しについて
 
 
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