
寒菊の久しく朽ちず石の壺
新年や墓にあいさつ通う道
寒菊はなかなか枯れない、室内においても日があたらなくても枯れない、寒菊はいつまでも咲いている強いりんとした花である。寒さにも強い、忍耐強い大正生まれににあっていると書いたが本当にそうだった。
新年といっても何もないが同じように裏の墓所のある道を通っている。その角に因縁の自分の家の墓があるのだ。それで新年ということであいさつした。毎日自分の墓の前を通るからどうしても意識してしまうのだ。身近にある墓は必ず意識するから先祖も意識することになる。そして町の中にある墓所は自分の墓だけではない、他の家の墓も意識するのだ。墓の同族意識みたいなものがはぐくまれる。墓を一緒にする寺友とかを放送していたが都会だと寺友まで作らねばならないかと思った。最後を共にするのもまた人工的に作っていかねばならない、村とかに住んでいれば自然と村の墓所におさまるからだ。
寺友というが寺の墓所は塀に囲まれているから市町村の墓所、共同の墓地とならないから良くないのだ。寺に管理される時代ではなくなっている。檀家というのは死者を管理する場になっているが共同の場としては市町村の墓所が街中にあるのがいいのだ。墓所は寺が所有するべきではない、寺に金を払うべきでもない、市町村の墓所として管理すべきなのである。