
庭に咲く豆の花咲き実もみのる
雀来て白椿による何もなく
同じ紋庭に二匹の黄金虫
雀がきた、白椿が咲いていた。その光景はありふれた日常的なものである。誰も注意しないかもしれない、でもなぜそこに美があるのか、その美は無垢の美である。飾らない美である。花になぜ雀が鳥が虫が映えるのか、調和するのか何でもないが不思議である。人間の付き合いはいろいろ飾りやりとりも計算づくだとか純粋なものがない、功利的になってしまう。最近そういうことが極端な形で経験したから特に思った。つまり雀は何ももっていない、鳥は何も身につけていない、だからこそ花に映えるのだ。人間はいろいろなものを身につけている、もちすぎているのだ。外見でもそうだし心も偽るものである。人間はこの雀のように単純ではない、余りにも様々なもので装いすぎて醜くなっているのだ。自然界のものは無垢でありありのままであり何ら飾るものがない、何ももっていないからこそ花に映えるのである。結局人間だけが自然のなかで映えないもの調和しないものなのだ。文明も作りすぎて醜くなっている。雀というあまりにもありふれたものに美を感じるのはやはり人間と比べるとき人間があまりにも醜いものとなりすぎているからである。
黄金虫が同じ紋で二匹来ていた。黄金虫は金持ちの虫なのか,縁起のいいものなのか、でも金運はでたらめである。財産はつまらない人物に与えらて肝心な者に与えられなかったり余りにも不公平なのである。なぜあの人ばかりに金が与えられるのか不思議である。4人から財産をもらっている。他でも信じられないけど財産は不倫した妻の方に子供を通じてとられてしまったとか金運は全くでたらめであり不公平である。介護でも懸命に介護している人に財産がいかず何もしない兄弟に分けられたとかこれも相当理不尽である。金をもっていて金を使う人も金の使い方がわからない、介護とか供養を金で頼んでもできない、確かに親戚よりは家政婦とかヘルパ-の方が役に立ち金も役に立つ、でも本当に介護できるのはやはり家に尽くしてくれた、苦労をかけたからとかになっている。供養にしても永代供養などありえない、金やるから死んでも自分を永遠に供養してくれといってもできないのだ。そんなことで金やったのも馬鹿げていた。金も使うのがむずかしい、生きた金にするのがむずかしい、ドブに捨てるように金が使われる場合がある。供養するのも供養する気持ちがあってできる。金やるから供養してくれと言っても無理である。
今の時代はどうしてもあらゆることが金にまつわる問題になりやすい、その金を活かすことがむずかしいのだ。いづれにしろ人間は死んでもあとあとまでその人のしたことが問われてくる。金の問題もそうである。だから生前に金を誰にやるべきか考えておく必要がある。でもこれも実際死んでみたら失敗だったとなるのも多い、死んでからのことなどわからない、むしろ全然財産もやらない人が供養していたりとなる。そもそも供養は無償の行為であるからそうなる。供養自体は全く金が必要ではない、供養には心のみ必要だからだ。介護にはいろいろ負担があるが一旦死ねばあとは何の負担もない、ただ供養する心だけが必要になるからだ。