2006年01月22日

南相馬市誕生


また一つ店の閉じたり冬の暮

万両に雀の群れて新市かな

用なるは墓参りのみの白髪かな


南相馬市が誕生して選挙が市長選がはじまっている。鹿島町(鹿島区)の通りの食料品と雑貨店、ビデオ店併用の小さな店のシャッタ-が閉ざされた。前にも一軒小さなス-パ-が閉じた。三つも大きなス-パ-があるからやっていけないのだ。今のところ全く認知症のことで何も手がまわらない、これはとんでもない病気なのだ。人間を崩壊させてゆく恐ろしい病気である。単なる老人のボケとは違う、精神病特有の疾患、せん妄とか強度の幻覚とかが入ってくるしだんだん金の計算やらさまざまなことが一人でできなくなる。人間が崩壊してゆく恐るべきものである。これはガンなども体をむしばむものだから恐ろしいことを父親がなったので知っている。しかし体の病気ではまだ人間は人間としての意識を持っている。手厚く看病すれば感謝したりうれしく思ったりそうした病気でも普通の人間的感情をもっているのだ。

認知症など感謝するとかもない、一方的に怒鳴られたり暴れられたりわけもわからずされる。ものすごく扱いにくい患者である。介護で虐待のことが問題になったが経験すると日々虐待されているのは看護する方なのである。毎日のように物をとったとか遠慮もなくあけすけにののしるし歯止めがないから暴力もふるうのである。これに耐えられず介護する専門の人の殺人まであった。多くの若い人がやめてゆくのもわかる。こんな病気があるとは信じられられなかった。介護する方が寿命が縮まり早く死んだものもいたというのもわかる。ノイロ-ゼになり介護する方が安静薬を飲んでいる。

ともかく南相馬市になっても7、8万だから福祉関係のサ-ビスは悪い、認知症の相談する場もないかもしれない、この辺ではグル-プホ-ムなどもない、こういう点小さい市は損なことがわかる。ただ地域が助け合う世界があると助かるだろう。人間墓参りだけが用となってしまった白髪がある。白髪にはいろいろも白髪があるのだ。賢者の白髪とか経験の智恵をもった老人の白髪とか老人もまたいろいろなのである。老人でも社会であれ何であれ用あることが何かにたいして価値あることが必要なのだ。この用とは無用の用とかもあるし用とか価値は簡単に決められない、わかったことは誰かが苦しんでいるとき助ける人が用なる人である。認知症自体の介護自体意味なくてもそれで苦しんでいる人には意味あるのだ。家族で背負いきれないものだからだ。それを助ける人は価値ある人となるのである。一方ただ墓参りするだけならなんの助けともならない価値ないものとなるのである。用とか価値とか対人関係的で決まる場合がある。ある人が必要とするものを提供する人は価値がある、用なる人ともなるからだ。なんか自分のプログも認知症のプログに変化してしまった。プログは日記にもなるからどうにもならない、本人が今一番関心あるものを書くのはしかたないことである。

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