
咲きそめし桜や山鳩飛来しぬ
田舎道土筆に芹に雀かな
吉野山桜が枝に雪散りて花遅げなる年にもあるかな 西行法師
みちのくに花の遅しも満開の便りのはやもここに届けど 老鶯
盛岡に我が来たりしもまだ咲かじ桜やいつか見なむと帰りぬ
みちのくに桜咲きそむこの道に我が墓ありて姉は亡きしも
この道の桜並木に花咲くも姉友達と歩むことなし
友達に姉たずねざればさみしくもあらじや悲し春は来れど
古歌に合わせて、返歌のように作歌するのもいい、その人が死んでも短歌を通じて交流するというのも不思議である。短歌とか俳句にはそもそも何か答える、連句するとか、相聞歌であり一人で作るものではなかったからだ。それがだんだん一人の芸術にもなった。ここもようやく桜が咲いた。三分咲きくらいでありすぐに満開だ。一部の枝垂桜は満開になっている。桜前線は日本特有のものである。桜前線の時、西から北と何度も旅した。それで桜前線の短歌を作った。桜は西で大阪や京都が満開のときみちのくはまだ咲いていない、でも逆に大阪や京都に桜散ると陸奥の方はまんかいになる。その差はいくら交通が発達しても変わらない、花咲く時期を早めることはできない、新幹線で50分で行っても仙台で咲いても盛岡はまだ咲いていない、まだ待つ必要があり有名な弘前の桜は五月にならないと咲かないのだ。だから桜はその差があるからみんな見ることはむずかしい。だから弘前の桜も盛岡の桜もまだ見ていない、有名な桜が無数にあるけど桜は一部しか見れない、すぐに散ってしまうからである。その時期は短いからだ。
姉が死んで半年たったがやはりまだその辺にいるような出てくるような気がする。死んでから半年はまだ短いのだ。あわれだったのは認知症になってから最初のうち前からの友達と土手の桜並木について行ったのだ。その時はまだ友達も受け入れていたがあとは全く訪ねることがなくなった。毎日のように行っていた所も行かなくなった。嫌がられたのをわかったからである。その人は二年間来ていない、病院にも来ない、ただ死んだとき供養には来た。なんかそんな関係だったのかと思うと悲しい、めんどうなのはわかるし病気のことがわかりにくいのもわかる。でもそんなに長く交際していたのに全く没交渉になることが端から見て理解できないのである。その人が死んで少しは悲しいとかその人ともう一度会いたいとか思わないのだろうか?別にあとは迷惑もかけていないのだから普通の人間ならそう思うはずである。別に特別非難するわけでないけどどっちにしても淋しい、悲しいことではないか、それだけのものだったのかといえばそうなのかもしれない、でも死んだら少しはあの人いなくなって淋しいなと思うことあるのではないか?
ただ今や死んだ人は帰ってこないのだからここを一緒に歩いたとかそうした思い出だけになってしまう。でもまだ半年だとその辺を歩いているような気がするし墓の前をどうしても毎日通るから死者を意識してしまうのである。
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