2009年04月01日

近江の春-俳句十句

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(近江の春-十句)


関が原しばし止まりて残る雪

みちのくゆ春に仰ぎぬ伊吹山

春光や近江平野をひた走る

春光や近江平野の拓(ひら)かれぬ

菜の花に蓮華畑や近江富士

京近み大津の街や春の月

義仲寺や大津のあわれ柳かな

春の日や唐橋長く京へ行く

京を出て近江平野の春田かな

皇子山都の跡や春深む

近江で一番記憶に残っているのはまぶしい春光のなかを電車が走り近江富士を見たことである。それが未だに鮮明なものとして残っている。それはなぜなのかというとやはり地理的な影響が大きいのだ。大阪京都大津の街までは家が密集しているから狭苦しく感じる。でも一旦大津の街をぬけて近江平野に出ると広々とした感じになりここは田舎だという感じになり解放感があるのだ。これは京都から東海道を江戸に向かうのと江戸から京都に向かう感覚は相当違ってくる。電車でも関が原をぬけると景色が変わってくる。関が原にはまだ雪が残っていて伊吹山が見える。登山口にもなっている。伊吹山は大和武の死んだ場所として有名である。それはみちのくまで遠征してここで死んだということでみちのくとも関係している。近江平野というと早くから開けた肥沃土地を想像する。信長の安土城もある。また京都に近いということが信長安土城を築いた所以である。近江平野に出て家の密集地帯からぬけでるからほっとするのだ。江戸時代は違っていた。大坂城さえ広い野の果てに見えた。家がその前に見えない外国人のスケッチが残っている。京都や大坂まで家が密集してしくるとそこが狭苦しくなり窮屈に感じてしまう。その点奈良は不思議に田んぼや畑がまだあり田舎だと感じるのも変である。関西では奈良は田舎だというのも感覚的にわからない面がある。平城宮もあったところであったからだ。京都、大阪、神戸が新しい都会であり奈良は田舎になった。それはヨ-ロッパだとギリシャにている。
ギリシャは古代の中心地だったが今ではヨ-ロッパの保養地であり田舎なのだ。島とかにロバがよくみかけ一面に菜の花が咲いていた野を二三両で日本の廃れたロ-カル線のようなものであった。奈良にもそういう面があったのだ。奈良は一時期都であったがあとは都として発展せず京都が千年の都となったのである。ロ-マは今もイタリアの都であり現代にまだ通じている。でも実際の繁栄は西ヨ-ロッパに移っていった。

関西の位置づけは京都を中心として展開される。義仲の義仲寺が大津にあるのは意味がある。京都での覇権争いに敗れたものが眠る場所として大津がふさわしいとなる。京都よりはずれた場所としてふさわしいとなる。関西では常に歴史も京都があって展開されるし意味づけられる。東海道の旅でも瀬田唐橋に来れば京都が近いと歩む足もはずんだだろう。今はそうした京都までの過程がはぶかれるから旅がないから京都へ入る喜びもないのだ。地図を見ると瀬田唐橋の袂に橋本という地名があるのもなるほどと思った。大きな橋だからここに橋本とあるのは納得した。志賀のさざなみの都もここに五年間あり皇子山とあるのもなるほどと思う。旅はあとで地図を見たり写真を見たりしてふりかえらないとわからななくなる。インタ-ネットでは回想の旅がしやすい、写真も豊富であり地図も出ている。それで自分の旅したところをふりかえり思い出して書いてみる。どういうわけ近江には三回くらい行っている。多賀神社まで行っているしここにはあまり行かない、伊勢神宮には行っても多賀神社には行かない、でもここは伊勢が太陽だとすると多賀神社は月というふうに栄えた神社だったのである。「詣でけり多賀神社にも冬の月」である。 つくづくふりかえるとあちらこちら旅してきたものだと思う、外国は一〇年旅したがこれは今の時代では表面的なものとして終わった。やはり今の時代は外国を旅していないと日本も語れない、絶えず外国との比較で語られるのが現代だからである。その点失敗だったとなる。でも一応上辺だけでも旅したから日本と比較して外国が多少は語れるようになったのだ。」

春の近江平野
http://musubu.sblo.jp/article/1816789.html

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