2009年03月31日

花見十句

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(花見十句)


人変わり上野の花見遠きかな

飛鳥山花をめぐりて迷うなれ

なお見たし京の桜や遠しかな

花もなし枯木に月や吉野かな

花めぐり京大阪に吉野かな

京の日や枝垂桜のあわれかな

大阪の花見や尽きぬ人の波

大坂城夕べなお散る桜かな

満開の桜や天守へ姫路城

城いくつ天守に上り花見かな

海望み瀬戸の桜や明石城

悲しさや花見にあれど会えぬかな

みちのくに花まだ咲かじ待つ日かな

 
花見といえばやはり京大阪から瀬戸内海の城のあるところで栄えた所である。どういうわけか奈良の桜もあるのだがこれも見たのだが奈良は思い出せない、奈良でも桜を見たのである。奈良が万葉集時代となるとやはり桜は山桜であり歌われたのわずかである。京大阪になり花見が本格化した。それは秀吉の醍醐の花見でわかるようにおおがかりになったのだ。だから京大阪が花見が一番豪勢なのである。江戸となると飛鳥山とか上野の花見があった。浮世絵を見ると飛鳥山は今の十倍以上の大きさであり今とは全然違っている。そもそも江戸百万都市といっても江戸は豊かな自然の中にあった。飛鳥山を花をみて回っていたら迷ってしまう、回りきれないほど大きい自然があった。江戸で暮らしていたら今のように電車で田舎に行く必要はない、身近に自然はあった。
 
今になると上野の花見も遠い、上野の桜はそんなにきれいではない、人が混んで人の臭気が漂う、酒の匂いも漂う、回りはビルだし花見といっても汚く感じるのだ。京、大阪や吉野となると違う、豪勢であり城もいくつもあり大きいから見応えがある。しかし人の世は変わる、今や上野で花見している人たちもすっかり代が変わっているだろう。同じ会社でも退職したりして若い人中心となると人が変わる。花は咲いても人は変わるのがこの世の無常である。今やなんか東京も京都も遠い、遠さの感覚は近くでもやけに遠く感じることがある。ここから同じ町内の栃窪さえ春北風が吹いて遠く感じた。人間はたちまち時は過ぎてゆき、ただその栄華も夢と消える、死んだ人とももはや会えない、巡る花見の季節にまた様々な人間模様があり人間の無常がある。年取ると無常の度合いが大きくなり無常のみを感じてしまうのだ。
 


 

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