2006年01月19日

朔風

朔風になお木のしなり耐えるかな

朔風に耐える老木倒れざれ


人生というのは認知症を身近に見て過酷だと思ったし痴呆症のために家庭崩壊とかもある。認知症というのはこれは業病である。人間というものを失う深刻さがある。ボケとか耄碌とは余りに違いすぎる。本来持っていた人間的な情感を失う、人間ならざるものとなる。息子に娘に向かって「あなただれ」というときこれはすでに親と子の情が通わなくなっている。そして病気だからしょうがないといえばそれまでだが肉親であり家族であったものがまったく家族的情感も通じなくなる。死より悪いものがこの世には結構あるのだ。この認知症とか精神疾患はそれにあてはまる。死んでほっとするとなってしまう。体の病気でもガンであれいろいろ悲惨なものがあるが精神の病はこれは手に負えない、狂気によって人間的情が失われるのが最も深刻なのだ。

家族として長年暮らしていたものが全然人間の情が通じないような世界に入ってしまうのだ。ただここに人間の大きな業みたいなものがでてくる。老人特有の精神の病気として起こる一面がある。過去の長い人生体験がそこに反映されてくる。リア王の狂気というのもその類であろう。病気であれおさえられたものが噴出してくるものもあるのだ。日頃思っていることが何の遠慮もなく現れてくる。嫁が口汚くののしられるのもまさに日頃思っていた姑の思いが露骨に現れるのである。認知症で死ぬ人は最悪の死に方かもしれん、病気でも苦しくても最後まで人間的感情が残っていれば人間として死んでゆくが認知症は人間として死んでゆくように思えないのだ。だから死より悪いとなってしまうのである。

ただこういう悲惨ななかにも一体家族とは何なのかという単純なものの意味が発見される。家族は同級生とか二三年で終るものではなく人生の大半を暮らすところなのだ。そして家族も終るときくる。つまり老年になると家族が終るということを知る。その時認知症になる人が80歳以上では5人に一人いるとなるとしたら深刻なのである。認知症何かその家々とか人とかによって違う、その対処の仕方も家族が違うから違ってくるのだ。そこは普通の病気とは違う老年特有の問題として現れたのだ。不思議なことは家族は空気のような存在だからその貴重な存在の意義を感じないのである。家族も終わるときがくるし別れるときがくる。そこに家族の貴重な価値が生まれる。価値はどこで見直されるかわからないのが人生である。

今日はまた一日北風が唸って家を揺すっている。
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