2009年03月18日

福島県陸前浜街道の自然と歴史をたどる

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●文化は多様性(文化は細部にあり)
自然も多様なように人間の歴史の積み重ねも実際は多様なのである。文化とは多様性のことである。江戸時代まで隣の村と民情が異なるから村が合併するのはむずかしいとしきりに言われるのは日本では山一つ越えると言葉まで微妙に違ってくる。文化はまず地域に根ざすから単一化できないのだ。文明が発達したとき汽車が電車が車が交通手段になったとき、多様な自然と文化が歴史が単一なものとして平板化した。日本の地貌は複雑であり地名も多様なのはそのためである。それが一様に見えるようになったのは交通手段の発達によるのだ。新幹線で東京まで行ってもそこで自然の変化や土地土地の文化にふれることはない、ただ人間が移動しているだけであり間はとばされて目的地について用事を果たすだけなのである。だから現代から旅は失われた。新幹線で数時間で青森まで行ってもそこにはすでに旅はない、遠くに行くということで便利なだけである。北海道を目指して途中の東北の旅はぬけてしまうのである。現代は途中を飛ばしぬける旅になるのだ。これは極身近なその人が住んで暮らしている所でも同じだったのである。自然が文化が多様だというとき身近な所でも多様なのである。それを今まで郷土史に地形の観点から書いてきた。今回は浜通りの陸前浜街道をたどってみる。

●自然条件と歴史の一致
浜通りの磐城から相馬まで他から来た人はたいして魅力も感じない、自然も平凡であり海も見えないから何か浜通りとさえ感じられないかもしれない、でもそうした平凡な地に見えても自然は様々であり歴史もある。それは細部になるから見逃されるのである。交通手段が発達するとき細部は見逃されるのだ。その最たる例が飛行機である。飛行機はロシアのシベリアの広大な上を飛んでも何も見えない、暗黒でしかない、細部は何も見えずにヨ-ロッパに到着するのだ。文化とは多様性であり細部のことなのだ。ある土地をしる、文化をしるためには今や過去にさかのぼり歴史をさぐり昔あった大地の様相をイメ-ジして再現させる作業が必要になっているのだ。相馬藩の地域内でも相当に複雑な地形であり歴史もある。だからその昔の自然の状態からイメ-ジする再現する作業が必要なのだ。磐城が温暖だというとき波立海岸には南国産の樹や植物が多い、石蕗も咲く、でも楢葉辺りからへって相馬辺りではほとんど見られない、これは気候が植生に深く関係しているのだ。石蕗の花は秋に咲き伊勢志摩辺りではいっぱい咲いていた。

石蕗のあまた咲きける伊勢志摩に波にゆれつつ船の浮くかな
福島県の浜通りでは磐城までしか咲かない、そして陸奥の真野の草原遠けれど・・・この歌のもっている意味は浜通りのもっている自然条件と一致していた。東北全体でも万葉集の歌の残っているのは陸奥の真野郷-安達太良であり緯度も一致している。マルハシャリンバイが陸奥の真野郷の南相馬市の鹿島区の海老浜になっているのもそのためである。ここから先になるとさらに寒くなるから咲かなくなる。それは文化的境界でもあったのだ。波立海岸は浜通りでは唯一岩礁があり磯がありそこに熱帯魚がくる。現実千葉県からその熱帯魚を求めて探しに千葉県から来た青年がいた。毎年くるというから必ずここには熱帯魚が夏になるとくる。黒潮にのってくるのだ。その岩に珊瑚礁が小さいながらできている。磐城は熱帯の海とも通じていた。磐城の海の底には大きな珊瑚礁があった。鹿島区から珊瑚礁の化石が発見されてフタバススギ竜などの化石が出たのは温かい海が太古あったからである。

●失われ見逃される歴史の跡
 見逃されているものとして各地の鎌倉、南北朝、戦国時代の遺跡である。相馬三八館、田村四八館、磐城四八館があった。田村は三春だから三春の勢力も大きかったことがこれでもわかる。相馬氏は小高城から村上城へ移ることを決めたが成らなかった。村上城跡には貴布根神社があるがこれは小高城から遷したものだった。その後相馬氏の内城とか聖とかある塚部地域にも遷された。村上城は要害として地のりがいいから選ばれた。貴布根神社も船に由来するからあっていたとなる。ここにも忘れられたが人間の歴史の興亡の跡がひっそりと埋もれていたのである。そういう場所は全国にあるがあまり注目せずに通りすぎて行くのだ。これは城が多いドイツでもそうである。城の城壁のうよなものがわずかに残り昔を伝えているがそこにも歴史があり興亡が悲劇もあった。ヨ-ロッパは城が多いから日本と共通した歴史があったのだ。
相馬三八館、田村四八館、磐城四八館の攻防が浜通りにあった。それらは土深く埋もれてしまったのである。磐城の境に末続の駅がありここにおりたのも一興だった。ここには相馬藩の陣屋があり参勤交代のおり泊まった家が残って昔を伝えているとかインタ-ネットに出ていた。
末続の名の起こりはわからない、末続館があったのだから末続という姓もあるから末続氏と関係したのかその辺のつながりがわからない、でもこうした何もない駅にも調べてみるとそれなりの歴史がある。この辺は相馬藩と岩城藩の境でありかつては森や野が広がっていた未開の地だった。それで相馬藩の殿様が夜ノ森-余の森といい小良が浜といい領土を争った所なのだ。http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

(南相馬市鹿島区海老浜)

海老浜になお車輪梅咲き残る秋の夕日にかもめ飛ぶゆく

車輪梅なお咲き残る我はまた地元なればここに見に来ぬ

車輪梅いつしか消えぬさみしきや松風鳴りし海老の浜かな

車輪梅いつしか消えぬ海老の浜我がたたずみて冬に入るかな

(小高)
村上城忘れらるるや海の風そよぎ古木の桜咲くかな


村上城知る人まれにたずぬ人あれや古木の桜咲くかな

夜ノ森は昔森なれここ拓き桜並木の花盛りかな

熊川をそいくだりきて桜咲き沖に船見ゆ耕しの人

相馬より岩城は遠し広々と大野広野の枯野身にしむ

末続に我がおりたれば菖蒲咲き畑耕す婦一人かな

一本の松に春日や末続に来たりて磐城の国に入るかな

波立に石蕗咲きぬ相馬より磐城に来たりてあたたかなるかな

(四倉)
春の日や四倉に来て漁船に旗ひるがえり磐城近しも


四倉に春の岬やかもめ飛び海の光りて磐城近しも


桜咲く春の浜通り(俳句-写真)
http://musubu.sblo.jp/article/3723665.html

posted by 老鶯 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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