(春の京)
海の風堺大阪春の京
春の京千仏造る巧みかな
春の京フィレンツとにて錦かな
春の京店に触れたる清水焼
春の京宝物眠る古き寺
名を連ぬ三六歌仙や京の春
春の京御所も古りにき謂われかな
春の京嵯峨のあわれの尽きじかな
化野の煙となるや春の京
京に死し枝垂桜の優艷に
大津には義仲眠る柳かな
大原も京を語るや春の暮
京ありて吉野のあわれ花に月

thousands of golden Buddha
at Kyoto in spring time
the excellent skill!
30年旅にすぎていったというけど不思議なのは江戸時代の俳人、芭蕉でも蕪村でも一茶でも一生旅していたようにさえ思う。貧乏なのに不便なのにそれほど旅ができたことが不思議である。そもそも江戸時代では隣の村にゆくさえ旅なのである。歩いていくとしたら旅なのである。むしろ旅は度々(たびたび)行くから旅となった。それを全国にまたがり旅している。貧窮のなかでも旅している。そして歩く旅だから本当の旅をしている。その旅も今の環境とまるで違うのだから旅の意味は全然違っていた。あるところに行くにしても遠いとなるとやはり一回しか行けない、それは今の外国旅行と同じである。一般的に何度も行けない、でもパリに通うにして若い女性も行っているのが現代なのだ。今の旅は遠くても何度も行ける旅であり昔の旅は近くは度々行ったが遠くは一度限りの旅である。ともかく京都にも四五回行った。その回りも何回か行った。ただ大阪はわからない、大坂城に一回しか行っていないからだ。堺にも行っていない。瀬戸内海には何度か行った。そして今想像の旅をしているのも不思議である。想像の旅をするにはやはり何度も実地に踏んでいないとなかなかできない、想像の旅にはまた歴史的背景など知らないとできない、だから外国は想像の旅がしにくいのだ。日本だと想像の旅はしやすい、知識をたどってもインタ-ネットなどでもできる。また何かに詳しくなれる旅もできる。織物に興味をもったら西陣をたずねてさらに全国の織物をたずねてまわることができる。全国となるとむずかしくなるがインタ-ネットの中でバ-チャルの旅ができる。でもやはり実地に旅することがその後の想像の旅もできるのだ。想像の旅ができて旅は完成していた。想像の旅ができないと旅は完成しない。想像の旅の方が豊になる場合がある。多分に芭蕉の奥の細道はあとから想像して創作した旅だと言われるのもそのためである。
次は京都についてのエッセイを別に書いていますのでご期待!