2009年03月07日

本は消えるのか? (インタ-ネット時代でも編集は重要になる)


●出版の過程で消えるもの

 

出版は、製紙業−印刷業−製本業−出版社−取次−書店というパイプラインが正常に稼動して生まれてくる。出版社は創造する編集部門と販売部門とで構成されている。

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インタ-ネット時代になったとき、製紙業とか印刷、製本、取次ぎ、書店は必要なくなる。出版はこの過程をみるだけでいかにコストのかかるものかわかる。この時点で出版は特別なものであり組織のバックなくして出版できないものとなっていた。ロ-マ時代でも紙の値段が高すぎて紙を提供する方が価値があった。作家の価値は低かったのである。出版は一見作家の価値が著者の価値が高いように見えているが実際は違う。販売部門が大きな力を持っていた。宣伝するにしてもおおがかりになると金がかかる。だから文学賞などは販売部門が大きくかかわり大々的に宣伝して売りこむ。中味はさして問題ではない、こんなのがはやっていますよ、流行なんですよと価値のわからない大衆に宣伝して売り込むことが大事なのだ。要するに大勢の人に売ろうとすればあまりむずかしいのは売れないから大衆に読まれるようなものにする必要がある。だからそういう人が商売のために出版社のもうけのために選ばれ作家はただ利用されてあとは売れなくなってもかまわない、また粗製乱造して売り出すだけであり販売部門によって本が売れるか売れないか決まるからそうなる。ところがインタ-ネット時代には×印のところはすべて消える。これらのものは価値がなくなる。本をモノとして運んだり並べたりするだけの作業は必要なくなるのだ。そもそも書店は本の中味はほとんど関係ない、本のことなど知らなくても出版社から送られる本を並べるだけでありあと売れなければ返品するだけである。つまりなんら創造的価値あることなどしていない、野菜とか果物とか食料品を売るより簡単なスキルのいらない職業だった。それでも街の文化事業しているような感覚になっていたのはやはり書店がこれまではあらゆる情報の窓口の役目を果たしていたからである。
 

●残る編集部門
出版では残るのは編集部門である。編集は相当に創造的なことであり相当に優秀な人しかなれない、なぜなら一冊の本を編集することはその作家なり資料なり情報なり書く対象について詳しく専門的知識ももっていないと編集できないのである。編集者の役目は腕のいい料理人とにているのだ。食材に通じて独創的な料理を作り出す、美的感覚も必要である、料理人も明らかに芸術家であるからだ。食材とは様々な情報であり知識である。それを見極めて料理してお客さんに出すのである。他の仕事はただ本をモノとして運んだり並べたりする仕事であり誰にでもできるのだ。でも本の説明して売る人はやはりその本に通じているのだから売りやすいとなるが書店ではそういう人はまれである。本を売る人は中味は関係ない、ただ売るだけである。レジの仕事と同じである。その中味は関係ないのである。つくづくインタ-ネットで8年間ひたすら書き続けてわかったことは書くということも訓練であり書くこと自体が創造性を育むものだと思った。書きながら新しいアイデアが自然と生まれてくるときがあるのだ。インタ-ネットではまた必ず他のサイトやキ-ワ-ドで参考にして書く、編集作業が自然と書くことのなかに行われているのだ。インタ-ネットには料理するための食材が豊富だからそうなるし書きながら利用しやすいのである。でもその情報は本の世界に比べたら微々たるものである。郷土史関係は別にして微々たるものである。それでもその微々たるものでも利用しやすいから相当な効果を発しているのだ。プロの作家になるには膨大な本が必要になったのは書くためには食材が必要であり豊富な食材がないと美味の料理を提供できないからである。

インタ-ネット時代になっても編集はさらに貴重な重要な仕事となっている。インタ-ネット自体編集作業なくして読めない、様々な情報や意見や知識があふれていても何が重要で何がどうなっているのか編集作業が必要だからだ。それをテレビなどではしていた。情報を加工して料理して提供していた。それは偏向になってもわかりやすいから大衆は見ていて一方的に洗脳されることにもなったのである。今回の小沢氏の西松建設の献金問題でも写真と図でテレビ並に説明していた人がいた。そこにはいろいろ参考にするものがあった。でもかなり手間暇かかるからそれだけ暇ある人がいないからどうしても編集したものを提供する場が必要になっているのだ。編集の仕事はますます重要性をましているのだ。だから出版でも編集できる人はやはりインタ-ネット時代でも生き残るしそういう新しい仕事が生まれる。今は過渡期で仕事になっていないだけである。どうしても大きな組織の一員としてしか働く場がなかったからである。
 

●インタ-ネットに対応した仕事はまだできていない
インタ-ネットはまだ十年くらいであり、ずっと過渡的なものとして実験としてあった。その前哨戦としてニフティがあった。その延長上に発言している人はパソ通からの経験でインタ-ネットに則した情報発信をしている。それで個人として有料にしている、田中宇氏も有料にすることになった。宣伝とかでは自立性が得られないとかやはりインタ-ネットになると個人が主体だから個人に金払うことになる。個人でもメデアとして発信できるからだ。これからは作家や著作者、個人のジャ-ナリストがインタ-ネットで仕事ができる。個人のプロが価値が高まる。出版でも新聞でもテレビ放送でも実際仕切っているのは組織でありその中に作家、出演者が組み込まれて報道が成り立つ、そのコストも高いから大きな組織に金で買収されて個々人などは発信できなかったのである。そのコストが極端に低くなったとき個々人の作家やジャ-ナリストの価値は百倍にも高まる。そういう時代なのだけどまだそれが認識されていない、インタ-ネットは無料であり価値もそれだけのものであるとしかなっていないのだ。
今までも出版なら大手や大きな組織がバックにないと出版は無理である。まず書店にすら本は置けない、書店は大手出版社から本の中味など関係なくモノとして流れてくるものを処理するだけの場である。そういう場が今までは必要だった。雑誌を売るにしても街の書店がその窓口になるのだから出先の店として必要であった。読者も書店からしか情報が手に入らないとなれば書店は重要となる。でも今やインタ-ネットで窓口がふえたのである。本というのはなくならない、紙で読む活字と電子モニタ-で読む世界は何か違っている。読むだけではない書く方も違っている。パソコンで書くことの一番の相違は書きながら創造してゆくことなのだ。書くことにより創造がうながされてゆくのだ。情報の食材がキ-ワ-ドからいいがでてくるときは特にそうなる。その時編集作業が自ずと行われていい料理ができるのだ。かといってインタ-ネットとかパソコンとかは万能ではない、例えば皮肉なことはニフティでやっていたとき、これは百科事典なのかと思っていた。本当はレスポンスが主要となる対話形式として電子通信ははじまっていた。今こそインタ-ネットは世界的百科事典の役目もになっているし自分がやっていることはただ百科事典の項目を書いて無料で引用させているだけだとなり虚しいともなる。例えば上野霄里氏のうよな人なり思想なりはその全著作をしり人格をしらなければ理解できない、百科事典のように引用するものではないしできない、百科事典のように引用するのも必要である。郷土史などはそうなりやすい、学問的にもそういうものがあるがその人なり思想を知る場合はそんなこと不可能なのである。

田中宇氏が有料配信開始
http://www.mynewsjapan.com/reports/1007

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