
金閣と銀閣の詩
金閣は雪ににあうや朝日に映え
銀閣は紅葉ににあい夕暮れや
常盤木の松の緑に映えにつつ
その金のまばゆさと銀のしぶさ

京都の金閣にしても銀閣にしても一回しか見ていないから良くわからないけどこの対象性が千年の京都の都の文化を象徴している。平泉の金色堂は一つしかない、京都には金閣もあり銀閣もある。その対象性が文化である。対象性のなかに互いに個性を示して輝きあうものがある。そういうものが必ずある。どちらがいいというのではなくどちらも輝きあうのである。利休の侘、寂もいいが豪華絢爛な金の茶室の秀吉の好みもそれなりに全部は否定できない、美はそこにもあった。京都にはそうした二つのものが対象をなして光輝を放つ、みちのくは侘、寂の美しかない、つまりみちのくにはまだ文化は華開いていないのだ。金色堂も侘、寂のなかに朽ちてゆく、五月雨の中に残されていたかつての反映の証としてわずかに残されていたのである。ただ文化というのはその土地により個性が歴史が違ってあるからこそ互いに映えるのだ。みちのくには侘、寂、土臭さなどがあっているのだ。ともかくこの文化は対象性のなかに映える。ラテンとゲルマンの文化の相違は明確でありライン川を境に二つの文化は成長してヨ-ロッパの魅力を形成してきたと同じである。