仏法においては、「臨終は、生と死の境、死後への第一歩であるから、臨終の姿は、その人の死後の状態を如実に顕している
@ 集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。
A 手で空をつかんで、もがき苦しむ。
B 筋道の通った思考を失う。
C 恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。
D 大小便が垂れ流しとなる。
E 苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
F 苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。
G 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
H 身体や口から腐敗臭が漂い出る。
I 恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
J 鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。
K 白目を剥きだしてしまう。
L 目が血走って真っ赤に変色する。
M 顔面を伏せて、苦しみ、うめく。
N 苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。
(守護国界主陀羅尼経)
B筋道の通った思考を失う。
そもそも認知症なったら筋道通った思考をなくしている。
D大小便が垂れ流しになる
そもそも臨終の頃になったら大小便は自分でできない、垂れ流しになる。これはほとんどの人がそうであり始
末は看護師がしている。
E 苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
尿毒症になって2カ月間意識なくなったのだから目を開いても魚のような死んだ目となり反応がなかった。でも苦しんでいる様子はなかった。意識がなくなっているから苦しまないのである。
G 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
点滴だからこういうことはなかった、胃ろうのとき飲みたいとか食いたいとか餓鬼のようになった
I 恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
恐怖はなくなっていた。そもそも認知症になると死ぬということがわからなくなるのか恐怖がないのだ。死ぬことに恐怖しないので認知症はいいという人もいるが本当だと思った。
L 目が血走って真っ赤に変色する。
これはまだ元気なとき怒った時そうなった。激情的な人だったからそうなった。怒りは体に良くないのだ。
●みんな苦しんで死ぬ
姉の死の状態をふりかえるとそんなに悪いものではなかった。ただ胃ろうとかなっていたときの方がひどかった。まるで餓鬼地獄であり刑罰を受けているような状態だった。これは胃ろうになった人に共通している。死の状態が悪いから成仏しなかった、仏法に逆らったからだとかにはならないだろう。ただ死ぬとき形相が変わって「スシもってこいい」と叫んで死んだ人がいた。それは確かに死ぬとき餓鬼が現れたから餓鬼になって死んだといえるかもしれない、死んでゆくときの姿はみな違っている。死ぬときは楽に死んでいった。数分呼吸困難になったがス-と息をひきとり死んだことがわからなかった。すでに意識不明で死んでいたのだから死ぬときは楽だった。意識不明になっていたら苦しまないのである。死ぬことは一般的に楽になることだし生きていることと死んでいることの分かれ目は意識できない、無意識のうちに死に向かい死んだときはもう意識がないから何もわからないのだ。死ぬまではいろいろあり苦しんだとしても死んだら人は楽になることはまちがいない、二カ月間意識を失ってから半場死んでいたのだからかえって楽だったのである。
一般的に死んでゆくときはこんな状態になりやすい、癌で死ぬ人も耐えられない痛みに悶絶したりこれは普通誰にでも起きていることだからこれを仏教の法から死ぬときの相が悪いから地獄行きだとかならない、安らかに死ねる人はまれである。こういうことを言って仏法を信じなさいというのは脅すのは間違っている。なぜなら認知症などは全く生きているときから悲惨な病気であり罰あったとかなるが死ぬときはそうでもないからだ。また馬鹿になることは自分を責めないから鬱病より楽なのである。他者が悪いと思い自分は悪いと思わないし自分も馬鹿だと思っていない、だから自分を責めることがないから楽なのである。だから認知症の人は自殺したりしないのである。ただ自分だけに気分のいいことだけを他者に要求するだけである。わがままといえばわがままなのだけど本人は苦しまないのである。
●何かと因縁つけて脅す宗教の不純さ
いづれにしろ宗教はこういうことで脅すのが良くないのである。どんなに信仰しても正しい人でも死ぬときはみんな相当苦しむのが普通である。この項目にあてはまらない人はいない、死ぬときは必ずこの項目の中に一つくらいあてはまるからだ。もしこの項目に一つもあてはまらず死んだ人がいたら本当に奇跡だとなるがそんな人見ることはできないだろう。おそらくこれを言っている本人もそうである。みなん死んだときの姿は知りにくいからだ。また本当のことは言わないからだ。死はやはり60前くらいで死ぬのは寿命を全うしないことであり悔いが残るし80以上も生きたら天寿を全うしたとなる。死に方が仏法の罰だとかにはならない、60前とか死ねばやはり人生を全うしない呪われた人生だったとかなる。その他、死の相がそんなに重大事するものとはならないと思う。ただこれも不確かなものだから脅すのにはいい材料なのである。これを言っている僧がこの項目にあてはまらず死ぬ自身があるのか?それを確かめるから死ぬとき呼んで下さいと言ったら自信をもっていえるのか?創価の信者でもそうである。仏教関係者が自信をもっていえるのかとなる。仏教関係者自体が責め合っているのもおかしいのである。
医者だったらともかく差別なく体を直そうとしている。その病気の原因を極めて直そうとしている。これは仏教を他の宗教でも信じる信じないに関係ない、なんとか病気を直そうと努力しているのだ。その方が公正である。病気になるのは不幸があるのを宗教で脅したり宗教に因縁づけるのはおかしい。肺病になったりした人が今では全部直っている。直らないときは呪いだとかいろいろ言われたかもしれない、でもそれは伝染病であり特定の人がなるのではなく今ではみんな直る病気になっている。宗教からしたら罰であり因業だとか永遠に直らない病気になっていた。癌でもこれも宗教からすると因業だから直らないとなってしまう。すべて科学では解決しないにしろ病気に関してはいろいろ問題あるにしろともかく誰が悪いとか罪だとか罰だとか言わず病気そのものを直そうとしているのが公平であり病気に対する正しい態度ではないか、心正しい人でもヨブのようになる人もいる。確実に誰でも老化して病気になる。だからそういう面からみると宗教で脅すようなことは言えない、そして医者も言っているように死んだらみんな楽になる。成仏しているのだ。苦悶の表情もなくなるし安らかな顔になる。ただ死ぬまでが苦しむのは平等なのである。
●死後のこともわからない
死後のことについてもいろいろ言うけどでは地獄に落ちるとかなんとか言う人が本当にあなたは死後のことがわかるのですか?そんな自信ありますか?だからやたら地獄に落ちるとか言うべきではない、それは神仏の領域でありどんな人もわからないのである。神のみぞ知るである。
そこではこの世の善人は悪人とされ悪人が善人とされることもありうる。つまりこの世とあの世の価値観は逆転するからそうなるのである。いづれにしろ死後のことで脅すこともその脅す本人が神でもない仏でもない、凡夫であり罪多き人間なのである。だから親鸞のような人に見習いとなる。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、 とても地獄は一定すみかぞかし。」
いくら善行を修行しても行く先は地獄だということはどういうことなのか?これこそ真実である。
人を救うためには地獄まで行くという人もいたから地獄に一緒に同行しようというのが宗教者でありオマエは罪深い、罰あたるなどと言っている人こそ最大の罰当たりであり罪深い人であることは確実である。そういうことを余りにも軽々しくいいすぎるようになったのが宗教の大衆化の弊害だったのである。創価の場合はカルトだから常軌を謁している。政敵であろうが創価に一言でも批判すれば仏教を責めるやつは地獄行きだと公然と脅し集団の権力で通すことができる。このような異常なカルトが日本を支配したらどうなるのか?
[ 臨終観察、その6 ]
臨終の際の表情を観察した記録がありますが、社会保障研究所の井上氏が 1,175 名の老人の臨終を観察したものです。それによると1:安らか 71 % 2:無表情 14 %でした。上記の死因については 老衰が20 % であり、苦痛の多い ガン患者の場合も、その 69 % は臨終に際して安らかな表情であったとのことでした
3:苦痛 11 %
4:興奮/緊張 4 %
仏教関係者は脅すためであり根も葉もないことを言っている、現実にどれだけの臨終の相を見たのか?死人に一番接しているのは今では医者と看護なのである。
だからこの報告は信じられるのである。仏教関係者はやたらむずかしい経文などをもちだして恐怖心を与えるだけなのである。科学が万能でないにしろ今の時代は科学的判断を基調にせざるをえない、そうでないと社会自体に信用してもらえないのだ。そこにカルト宗教団体の判断が入ると科学の否定になる。それが盲信となり社会自体をカルト化してしまうから危険なのである。個々に祈ることと信仰することと集団で祈ること信仰することは違っているのだ。集団で祈ることはすでに他者に圧力をかけることになる。みんなで罰あたる罰あたると祈られることは恐怖になる。幸福になってくれと他宗の人へでも祈ってくれるのなら別だけど集団化したら他のものは排除され敵対するものとなりやすいのである。だから同じ日蓮宗でも互いに呪いあって祈っている異常があるのだ。