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唐津焼の窯元尋ね落椿
●勿来土瓶は益子と相馬へ
益子は焼き物の産地としてはそう古い方ではない。黒羽藩の御用窯として生産を開始してからの約150年の歴史である。かめ、すり鉢、片口、土瓶などの台所用品が主な生産用品であった時代が長い。明治中期の山水土瓶、明治後期の勿来土瓶は代表作であり、簡素な紋様の健康的で丈夫な実用品が作り出された。
益子も御用窯だった。相馬焼の方が古いから相馬焼を教えに行ったのである。黒羽藩というのはなじみがないがここにも自転車で行ったのである。城の跡もあるし芭蕉の寄った場所でもあった。
大堀相馬(おおほりそうま)焼は大堀焼とも呼ばれています。
福島県浪江町大堀(旧大堀村)の半谷休閑の下僕左馬が、相馬中村で製陶法を身につけて1690年頃開窯し、駒の絵を描いて評判をとり、以来村をあげて徳利・土瓶など種々の日用陶器を生産しました。維新後は衰退しましたが、1873年頃松永政太が考案した鮫焼土瓶(鮫肌焼)がアメリカへ大量に輸出されました。
これはいわき市勿来産の陶石を用いたので、勿来土瓶・勿来焼・とも呼ばれました
この勿来土瓶は大堀にも伝わり益子にも伝わった。陶器は土が重要であり土を探し歩いたりまた火力の強い松が必要だった。陶器作りはその土地に根ざすものだから材料が大事になるのだ。ブランド品はその土地から生まれるがこれは土とか燃料とかその土地のものを活かして歴史の積み重ねで作られる。そこに陶芸の魅力があるのだ。土地のお土産が土の産となっているのがまさにそのためでありお土産に一番いいのが陶器なのである。
●黒羽に寄った芭蕉
芭蕉と曽良は4月3日玉生を立ち日光街道を矢板−沢村−大田原−黒羽へと到着する。黒羽には13泊14日間で道中では最も長い。そして余瀬の翠桃邸に5泊、淨法寺に8泊と曽良の随行日記に記されています
黒羽に芭蕉泊まると秋日和
黒羽や昔の街道秋日和
秋の日や馬頭太田原別れ路
雲巖寺落葉を掃きぬ僧二人
この辺は那須の原とか開けていて見通しがいいところである。この辺の記憶も定かではないが益子も黒羽藩の領域だった。山の方に入ると雲巖寺という山奥の寺があった。そこから八溝の山を自転車で分け入り上ったのを覚えているのだ。旅はあとで思い出せれば豊かな旅立ったのだ。忘れてしまい思い出せない旅は旅になっていなかったのだ。車とかでは通りすぎる旅になるから忘れやすい、記憶に残らないのだ。鉄道だと駅名しか記憶に残らないことが多い、車窓の景色もまたたくまにすぎて人間の脳に記憶されないからだめなのだ。