2009年01月19日

寒の闇(死別がいやさないのはなぜ?)


亡き人と喧嘩もできぬ寒の闇


喧嘩してそれもなつかし寒の闇

姉逝きてしんと淋しも寒の闇

我が家に喧嘩せし日もありしかな今しんとして寒の夜ふけぬ
 
 
 死別の悲しみがなぜ癒されないのか、それは死んだ人と絶対に会えないからである。死別の不思議は夫婦でも親子でも喧嘩して仲が悪くても一旦片方が死ぬとどうなるのか、そこに深い悲しみとなる。夫婦でも嫌になり離婚することがあってもでは一旦どっちかが死んだりすると哀惜の心が起こる、それはなぜなのか、その人が絶対に帰ってこない、会えないからである。だからどんな人でも生きていてくれとかなる。死別は絶対に会えないことになるからその時会えていることだけでも最高に貴重なときだったとなる。でも普通単に合っていることが何か特別なことなどと想わない、普通のことである。それが死ぬとそうはならない、永遠に絶対に会えないものとなるからだ。夫婦でも恋人でもいつも一緒にいれば会えるのだから一緒にいることさえいやになったりすることはいくらでもある。だからすぐ別れたりする。でも死別することは単に生きて別れるのとは余りに違っている。二度と会えない、どんなに呼んでも会えない、その人と永遠に会えないとなるとその会えたこと自体が何であれいかに貴重な時だったかと思い知らされる。死別とは代わりで埋め合わせすることもできない 、モノならできるが人はできないのだ。その人の個性や長い間に培われた親愛の時間は簡単に作れないである。
 
介護も嫌であり苦しいから早く死んでくれと自分も想った。でも死んでしまうと二度と会えないのだなと痛切に思い後悔したのである。死者と絶対に会うことができない、するとその死者の価値は無限大に大きなものとなる。モノは代わりがある、人は代わりになることはできない、だからその悲しみはいつまでもつづいてしまうのだ。つまりある人が言うごとく自分自身が死んだときはじめてその死別の悲しみから解放されるとなまでなる。だから若い人の死別は悲劇である。老人になると自分もどうせまもなく死んでゆくとか想うとすぐにあとを追ってゆくからなとなる。ところが若い人は先が長いから延々と思いつづけることになる。そして死別した人とは永遠に会えないのだからなかなか癒されることもあいのである。介護は嫌でも死んだらどんなでもいいから生きていてほしかったとかなる。それは生と死の断絶があまりに大きすぎるからなのだ。会うことなんか普通ありふれたことである。でも一旦会えなくなる、永遠に会えなくなるということはその喪失は補うことができない、そこに死別の悲しみが延々といやされず残る。だからもう一度でいいからほんの一度でいいから会えたいとかなる。そう思いばますます会えないのだから悲しくなるのだ。おそらく人間が全く完全に消失すること、このことがどうしても解せないのである。それは余りにも理不尽なこと不条理なことであり神を呪うまでになる。ただ死がすべて無意味とはならない、死は実際必要であり死がなかったら様々な問題は解決しない、社会自体も高齢化とはすべていいものではないし老害になり社会が新陳代謝できない、だから死は必要なのだ。ただ個々の問題になると死はどうしても納得いかないことになるのだ。
 
 
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