2009年01月11日

あらたまの万葉集の歌

 
 
あらたまの、年は(き)来ゆきて、玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞(かすみ)立つ、長き春日(はるひ)を、天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし、たらちねの、母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り、息(いき)づきわたり 我(あ)が恋(こ)ふる、心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み、天(あま)伝(つた)ふ、日の暮(く)れぬれば、白栲(しろたへ)の、我(わ)が衣手(ころもで)も、通(とほ)りて濡(ぬ)れぬ
 

あらたまの年の緒長く・・・・これは年があらたまったときの枕詞だから正月には長生きを祈ったのである。現代はこうした自然と結びついた行事がなくなってきた。こうした行事は農民の生活から生まれ宮廷にも引き継がれた。天皇が今でも皇居で田植えをして蚕を飼っているのもそのためである。天皇は司祭であった。豊作を祈るのも天皇の役割だった。宮中の行事は農民と密接に結びついていた。正月の行事自体が農耕と切り離せないものであった。七草とかもそうだし正月はただ一年の変わり目だけではない、正月とは一月が全部正月であり小正月もあった。正月は長い間ハレの日として祭りの日だったのだ。だから宮中で行われた行事はもともとは農民が村でしていたものである。それが宮中に移されたのだ。あらたまは新魂であり魂が新しく働くという意味である
http://www.musubu.jp/jijimondai34.html#arata(時事問題の深層)

 
玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞(かすみ)立つ、長き春日(はるひ)を、天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし・・・・・・・玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞(かすみ)立つ、・・・ここはおそらく桃源郷かもしれない、現代のように余りにも騒々しく情報がもたらされない方がいいかもしれない、情報がありすぎると混乱するのだ。逆に情報を遮断する必要があるかもしれない、その中で天地だけは深く思うのである。ここに天地のリズムと身近なたらちねの母が常にそばにいる安らぎがある。 そして繭を飼う生産は変わらない、代々と村につづく、代々につづくからこそ天地のリズムと一体となる。現代のようにめまぐるしく変わったら天地のリズムと一体化できないのだ。古代人は常に天地を思っていた。そこが現代人と根本的に違うことなのだ。天地の栄いとともにあった。現代では天地を思うより常に株とか自然と離れた経済のことが関心の中心になる。だから自然の美を自然の恵みを知り感謝することがないのである。この万葉集の歌がいいのは古代の悠長な時間と一体となったのどかさである。あせることもなく天地とともにある自然な姿なのである。その営みは代々受け継がれ外からの情報にふりまわされることがない、玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)は滅多に来ないから尊いのであり今のように四六時中真夜中までインタ-ネットにアクセスして情報の洪水に溺れているのとは違う、それはまた情報に絶えずふりまわされることになるのだ。蚕は昔はどこでもあり山村でも産業の中心であった。それが失われたことも山村を疲弊させた。つまり山村でもそこで暮らせる営みがあるとき桃源郷でありうる。それがないなら常に外からの情報を助けを願うことになる。炭焼きしていたときも炭焼きで暮らしていけるから都会に出なくてもいいという村で暮らす自負があった。その暮らしが失われたとき逆に桃源郷は喪失したのだ。桃源郷は絵とか詩とかの架空ではない、空想ではない、現実に根付いたときありえたのである。今どこにでもある二階建ての養蚕をした家はまるで過去の暮らしの遺物のように用なくなっているのが
山村の風景となってしまったのである。この歌は万葉時代、奈良時代という遠い時代の話ではない、最近までこういう暮らしがあったのである。つまり継続された暮らしがあった。それが根こそぎ失われたことは単に経済的な影響だけでなく精神的なものとしても影響が大きすぎたのである。
 
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