2009年01月11日

新年の満月 (美しい月はいつもあなたの上に・・・・・)


二夜(ふたや)見し冬満月の曇りなき心安すけく年の明けにき


二夜見し冬満月の曇りなき心澄みにき新年迎えぬ

あらたまの年に輝く満月に禍事なかれ心澄みにき
 
二夜連続して曇りなき満月を見た。二夜連続して見たことが心をさらに明るくした。つまり認知症とか介護だと二夜も曇りなき月を見ることがない、常に曇る月を見ていねばならなかったのだ。ともかく認知症は最大の禍事だった。どうにもならない禍事だから御祓いでもしたくなる。それしかないような禍事だった。どうにもできない病気だった。そのことが自分に深く影響した。だから死んでもまだ認知症になぜなったのかとかそのことを考え続けている。認知症とか知的障害者とかその他、鬱病であれ精神の疾患にかかった人と接することは苦しい、介護する人も心が穏やかになる日がないのだ。心が澄んでくることがないのだ。本人もそうなのだろうけど介護する人もそうなのである。ともかく六〇年一緒にいたんだから死んでもいろいろ考えることが多いのである。
 
最初に現れてくるのが、八十禍津日神と大禍津日神。体に付いた泥が落ちたわけですから。その次に、この禍を直すために直毘の神が出て、最後に清らかな伊豆能売神(いづのめのかみ)が現れてきて“禊”が完成するわけです。直毘の神が出て最後に清らかなな伊豆能売神(いづのめのかみ)がでてくる。
 
これは今日の澄んだ満月だったかもしれない、本当にそうなってほしい、認知症は最悪の禍事であったからだ。

二夜庵跡

市街地を流れる磐井川にかかる磐井橋のたもとに2軒の宿屋があったといいます。この隣接する2軒の金森家のいずれかに、芭蕉と曾良が宿泊したといわれています。
今国道に面した橋のたもとには「二夜庵跡」の碑が建ち、裏へ回ると説明板があります。説明版には次のように記されていました。(抜粋)

 
一夜庵とかあり二夜庵もあった。でも三夜庵はない、旅では長すぎるとなる。

 
美しい月はいつもあなたの上に・・・・・

二夜美しい冬の満月を見た

都会をのぞいて月はどこでも美しい

月は別に京都だから美しいとはならない

月はどこでも美しい

あなたの心が清らかなら美しい

あなたの心が濁っていれば美しく見えない

心がにごり曇ると自然も濁り曇る

あなたはそんなに旅する必要がないかもしれない

美しい月はどこでも見れるから

あなたは遠くに美を求めてゆく必要がないかもしれない

あなたのもとに美しい月が明るく照らしているから

いつもあなたのもとを美しい月は照らしていた

ただあなたが気づかなかっただけ

あなたの上にいつも美しい月が輝いていた

祝福するように月が輝いていた

月はあなたを慕いそっとついてきていた

あなたが知らなくても・・・・・・・・


   人間は結局どこに住んでも同じかもしれない、京都に住んでいたら特別優れた人となるのだろうか?そしたら京都にどうしても住んだ方がいいとなる。でも京都に住んでいても平凡な人は平凡だし特別な人となるとは限らない、どこに住んでも醜悪なものはある、パリに住んでもどこでもある。京都にもある。人はみなどこに住んでも同じである。いい人もいれば悪い人もいる、寺があれほどあっても観光事業であり嫌われている面もある。歴史があってもそれがすべてではない、美は結局どこにでも発見される。大都会をのぞいては発見される。ということは人間は基本的には自然の美を享受するには平等だとなる。月はどこでも美しく輝き平等に照らしているからだ。
 
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