2006年12月18日

NHK−認知症−その時あなたは・・・を見て

●なじみの場所の確保

認知症の人にとって何が最も大事なのか?それは今まで暮らしていたなじみの場所なのだ。なぜなら長年暮らしていたなじみの場所すらわからなくなるからだ。今の人は現在のことは覚えられないが過去から生活が継続した人や知識は貯えられていて覚えているからだ。ところが認知症になるとそのなじみの人とか環境からも断絶されてしまうのが一般的である。社交的であった人も認知症になると普通の付き合いができなくなるから誰でも敬遠するし幼なじみの人でも避けるようになってしまう。普通の付き合いができないのだからそれは付き合いではない、ボランティアとして認知症の人の話し相手になるような人を写していたがそういう人でないと付き合いなくなる。そうしてくれるのはまさに多少めんどうでもボランティアでやってくれる人なのだ。そういう人は極めてまれである。認知症に対する偏見、差別もでてくる。気味悪いとか思う人もいるし普通のレベルでの付き合いはできなくなるのだ。

私の場合一二軒確かにつきあってくれているがこれは特別である。一般的にはつきあいも断たれてしまう。また家族にしても普通のつきあいをされるとめんどうになるのだ。いろいろと世間のことがわからなくなっているのに普通のつきあいを継続しようとするから迷惑になってしまうのだ。金のことやいろいろわからないのだから今まで通りにはいかないんだからそれを知ってつきあってくれる人でないとだめなのだ。そういうふうにつきあってくれる人は回りでもいなくなるから困るのだ。ただ買い物くらいはできる、それは付き合いでないからだ。世間的普通の付き合いは認知症でない人でもむずかしい、礼をかくとか物をくれたのにお返ししないとかいろいろある。でも認知症になったらもらったことやまるっきり忘れたり世間の常識的なこともわからなくなる。だから普通の付き合いを継続することは無理なのだ。だとすると回りの人もいやがるしめんどうだとなるからボランティアのような人がいいがそれは極めてまれだから困るのだ。

●認知症の適切な援助の困難

認知症の人が今の記憶が喪失するとすると大事なのは過去だとなる。その人の生きていた過去が今生きることのよりどころとなる。だから絶えず過去の話をする。その過去の話を聞いてくれのは誰かとなると家族だとなる。夫婦でも40年とか暮らしていれば一番知っているのは自分だというのは本当である。過去のことを話したときその過去の話を聞いて認めてやるほかないのだ。私はこういうことをした、あういうことをしたとか百回も千回も語りつづけるがそれは自分という存在を認めてもらいたい、意味あるものとして伝えたいのである。自分は家族にとって価値あるものだったということを認めてもらいたいのだ。それを聞いてそうだ、そうだと認めてやると自尊心が満足して気分がよくなるからいいとなる。

施設では食事をしない人がいたがその人の好きなものを出したら食べたというのもその人を個人的に知らないとわからない、それを知っているのは一緒に何十年も暮らした人なのである。施設ではこうして個々に適切な対応をすることはむずかしいし地域でもそうである。むしろ施設の方がこの人は病気の人として接してくれるのだからいろぽす配慮するから地域で全くそうした配慮のない人とつきあうよりはいいとなる。まず一方的にべらべらしゃべったりこの人が認知症と認識しないで話しされると本人も当惑し疲れるとなっている。相手は認知症として知っていても対応はいろいろであり全く考慮しない人はボランティアでも向いていないだろうし迷惑になる。

認知症であれ介護する家族を援助することはこうした個々の適切な対応が望まれるのでむずかしい。金がないなら金をやるとか簡単にはいかない、普通の援助、ボランティアも実際は相手にとって必要のないものを贈ったり無駄が多すぎるから援助を受ける側も感謝していないのだ。本当に感謝されるような援助自体がその国その村の実情を良く知った人なのである。だから認知症について良く知らない人はなかなか適切な援助もできないのだ。

そこの老人ホームはかなり大きなところで、たくさんのお年よりの方々が職員さんや他の老人の方々と共同で穏やかに生活を送っている、なかなか良い雰囲気のグループホームでした。が、週に一回、その穏やかな生活が打ち砕かれる日があります、大学生などのボランティアグループなるものがやってくる日です。もう聞き飽きた昔話やら面白くもない人形劇、脂っこくてお年寄りの口には合わない豚汁の炊き出し、交流会と賞した車椅子による引きずり回しなど、それはもう、地獄のようなスケジュールが目白押しです。
でも善意善意で目がきらきらした若者が折角イベントを開いてくれてるんだからと、老人達は心の内を隠し、ただにこやかに微笑み、時に涙でもくれてやって、彼らが嵐のように去っていくのを我慢するわけです。
で、ボランティアラーたちが帰った後、職員の方にそっと言うのです、「ある意味、こっちがボランティアしてやってるんだねえ。彼等を歓ばせるボランティア」。


福祉とかボランティアとか援助にはこういうことが多いのだ。その人にぴったりあった援助はかなりむずかしいことなのだ。認知症の介護は特にむずかしいものとなる。だから家族だけで孤立しやすいのである。デイサ−ビスでも施設でもなかなか適切な介護ができないのは個々に対応ができない、機械的事務的になってしまう。家族のようなきめこまかいコミニケ−ションがとれないからなのだ。認知症のやっかいなのは他の病気と違って他者の援助を受けるのがもっともむずかしい、なじみの場や人が大事だとなると家族になるしその家族が付き切りで介護を強いられる、他に援助してもらうにもむずかしいから困るのだ。

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この図のように部品のようにぴったりと適合した援助がむずかしいのだ。
的はずれとか無駄が介護とか援助には多くなるのだ。
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