2009年01月04日

文明は人間を幸福にしなかった(増えるばかりの労働量で酷使される人間)


文明は人間を幸福にしなかった(増えるばかりの労働量で酷使される人間)
NHKの「冬 小さな旅」新年をよぶ 恵みのとちもち〜山形県・鶴岡市行沢〜」を見て

 

NHKの「冬 小さな旅」新年をよぶ 恵みのとちもち〜山形県・鶴岡市行沢〜」を見た。
栃餅は栃の木からとれる。栃の実は冬の保存食として縄文時代からあった。テレビではあくぬきの灰がかかせない、その灰は炭焼きの灰を利用していた。でも炭焼きしている人が今は一人になって灰の利用もままならないので栃餅作りは容易ではない、前は家族ごとに個々に栃餅作りをしていて家族に代々作り方が伝わっていった。栃の実を村の人みんなで山に入り拾い平等に分ける、栃の実は山の神の贈り物だから大事にして山の神に祈る。栃の木は自然林ではなくあとから植えられたものだという、人工的に作られた森でもあった。栃木県とかあるがやはり栃の実と関係しているのかもしれない、栃餅作り一つにしてもそこには長い歴史があり村の共有した生活があった。村の生活は基本的には少ない資源の分かち合い共有の生活が基本であり競争ということはなかったろう。例えば栃の実が限られたものとするとある一家族が多くとることはできない、それぞれ平等に分けねばならない、つまり一家族が多くとってこれを他に売ってもうけようとしたとき問題が起きる。村で共同で栃餅作りして売るというならいいが一家族ではできない、商品化するにしても村の共同事業と自ずからなっている。他に売ろうとするとまた労働がふえる。でも栃の実自体が限られた資源であれば増やすことはできないが栗はすでに栗の木の林を作り増やしたから売ることができる。大量生産するには自然のままではできない、栽培しないとできない、そうしたとき村の共同事業というより一家族や個人の労働となり共有労働とは違ったものとなる。それは売るための労働であり多く売るためにはさらなる効率的労働が要求される。売るための労働となるとき労働量は確実にふえる、忙しくなるのだ。

 
文明はなぜこんなに便利になった後ますます労働がふえて、労働力が必要となるのか、機械が発達すれば人間は楽できるはずである。理想的にはめんどうな労働はロボットにさせればいいとなる。でも以前として労働はますます加重になっているのだ。便利になればなるほど金が必要になる。金をかせぐためにはますます労働をふやし金をもうけねばならない、車一台維持するにも金が必要である。車によって便利になってもそれを維持するには金がかかるから労働は減ることがなかったのである。電気製品がでてきて家事が楽になっても労働はへらない、女性は外で働き共稼ぎであり育児、家事、いろいろなものでかえって忙しくなったのだ。買い物でもしてみると毎日何でこんなに買うものがあるのか買い物を贅沢になるとふえる。いろいろなものを買うようになる。その買うためにまた金をかせぐ必要が出てきて忙しくなるのだ。人間は文明が発達しても労働力がますます必要となり休むことができない、イタリアより休日が多くなり日本人は勤勉でなくなったというが江戸時代は大工でも半日しか働いていないとか労働量は比べることができないくらいふえているのだ。つまり遠くに行く範囲が広がれば広がるほど便利になれば便利なるほどまた忙しくなる。いくら交通が発達しても便利になっても遠くに行くことは手間暇がかかる。遠くと交流することはまた労働がふえることなのだ。自給自足経済なら労働はそんなにふえない、近くにあるものでまかなうということが基本だからである。遠くへ遠くへと交流が広がれば広がるほど労働量はふえ負担はふえてくる。だから文明は労働量がへることがないのだ。派遣が職がないというけど実際は外国人を入れたり労働力が不足しているところはいくらでもある。給料は安いにしても労働力をほしいところはいくらでもあるのだ。
 
情報にしても今やデジタル化で膨大な映像から活字の情報であふれている。整理もおいつかない、世界中の情報を処理するとなると限界がある。情報で便利になることはますますまた労働力がふえることなのだ。インタ-ネットの情報を追っているだけで一日が終る。世界で事件が次々と起こりそれがなんなんなのだろうと考える暇もなく次々に事件が起きる。情報を追いきれないのも現実なのだ。ビスタに変えたらこれの操作もなれるまで時間がかかる。知的労働量がふえるのだ。新しい技術が新しいものがでてきてそれをこなそうとすると労働力がふえるのだ。文明は便利を追求するが労働量はへらない、加速度的にふえてゆくのである。便利になればなるほど労働量がふえる。医療が発達するとますます高齢化がすすみ延命治療がすすみここでもその介護の為に膨大な労働力が必要になる。便利になることは比例して労働量がふえることなのだ。便利さを追い求めることが労働力が比例してふえることである。グロ-バル化経済は世界中で労働量がふやした。売る為の労働がアフリカの奥地でもそうでありふえたのである。コ-ヒ-売る為にもふえたしタ-ジリンとかで紅茶栽培している女性は30年しているといっていた。前は紅茶は栽培していない、紅茶をうるために栽培しているがそこでもおそらく労働量は相当ふえたのである。それも過酷なものかもしれない、バナナとるだけでも暑くてて日本人が大変だったというから世界中で便利になり贅沢になり労働量がふえたのである。日本人だってバナナを輸入する為には電気製品を作り車を作り売らねばならないから労働量はふえてやはり過酷な労働を強いられているのだ。文明化グロ-バル化することは世界中で過酷な労働がふえることなのである。若者が消費しない、車もモノも買わないということは悪いことではない、これ以上労働量をふやすことは酷使することにつながる。文明は発達しても人間を幸福にしなかったのである。多少の贅沢はできてもその代償が大きすぎたのである。
posted by 老鶯 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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