「硫黄島からの手紙」のビデオを最近ようやく暇ができたので見た。
醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ 栗林中将
この醜草(しこくさ)とは紫苑のことであった。忘れ草は藪萱草でありこれは親を思う兄弟の物語がありぎちらも忘れないようと墓に植えた花のことだった。最近家族が死んで墓に毎日のように通ったからこの物語がリアリティあるものに思えた。人間が死ぬと墓しか残らないから墓に対する思いが深くなるのだ。それは万葉の時代も同じだったのである。栗林中将はこの万葉集の歌を参考にして作ったのだから万葉集を相当知っていたのだろう。栗林中将はアメリカに滞在していたし万葉集も勉強していた。武人でもあったが知性もあった。武だけの人ではなかった。
醜草のはびこるときに我が生まる残せし言葉思い深かまる
戦争に関してはこれはいろいありすぎるのだ。姉は死んだが4年間もシンガポ-ルに従軍看護婦で行っていたから意識不明になるまで戦争のことを言っていた。家族に必ずまだ戦争を経験した祖父母がいるからまだ戦争は生々しいものなのだ。ただこれも戦中派と戦後派ではまた違って受け継がれるし見方も違ってくるのだ。例えば戦中派は戦争に参加しなくても当時高校生くらいだとかなり戦争中のことを具体的に経験しているのだ。それで今回上野霄里氏関係の手紙などを見ていたら出てきたのが「鎮魂歌」という手作りの小詩集であった。これは姉から聞いた話と同じことが書いてあった。窓から飛び下りて自殺しようとする人があとをたたなかった。戦争中には相当の人が自殺したのである。自決とも違う病院だから苦しくなって自殺した人がかなりいたのだ。ここでは戦争の非条理を自らの体験から書いているから貴重である。戦争について語られたことは山ほどあるからいちいち読むことはできない、でもそこには何か共通したものがありああやっぱり同じようなことがあったのだとわかる。
今の還暦の人は戦争が終ったとき生まれたのである。「醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ」・・・今皇国などという言葉がでてくると違和感を感じるがとにかく国を思って死んだのである。今死ぬとき国など思い死んでゆく人があるだろうか?結局一身のことしか家族くらいしか思わないだろう。戦争は悪いにしても国という大きな世界に生きていた時代があった。今はひたすら自分自身のことにしか生きていないからいい悪いは別にしてそのギャップが大きすぎるのだ。ともかく戦争というのは日常のことでないから理解しにくい、人を殺し殺すが日常なのだから理解できないのだ。その凄惨な場面を見て異常になった人がいるのも不思議ではない、相当無神経にならない限り耐えられない、それで自殺する人がかなりいたのである。
上野霄里氏の著作は全部読んでいるけど戦争に関することでこの手作りの小詩集は読んでいなかった。これは戦争とは何なのか知る手がかりになる。ともかく私が生まれたときこういう歌を思いを残して死んでいった人がいたということそれがあとの世代とまた違った感想を戦争に抱くのである。戦争は悪いものにしろ死ぬか生きるかのとき人間の残すものは心にしみるものとなる。栗林中将は家族思いで子供にこの思いたくした。その子供の世代が自分達団塊の世代でもあったのだ。 団塊の世代は国というよりただ経済成長にのり経済のために金のために生きた世代だから皇国のために死ぬという思想は払拭した。皇国とはやはり神聖な国という意味があり自分より神聖なもの大事なものとして国を考えていたのである。ここが戦前戦中世代と戦後世代の大きな相違である。 「 皇国(みくに)の行手一途に思ふ 」私たちは国を守る為にここで死んでゆく、これは必ず省みられたたえられる時がくる。そう部下に言い聞かせて死んでいった。ではその皇国(みくに)を今思っているかというと思っていない、戦争は無益であり無駄だったという意見も多い、死ぬときの後世へのメッセ-ジは重いのだけどそれがひびかない虚しさがあるのは否定できないのだ。
醜草の物語
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2005-08-01
上野霄里氏関係のものは簡単に紹介できない、著作権にふれるからだ。許可した人しか紹介できないかもしれない、ただ引用はできるのだ。それも二三行である。上野霄里氏の場合、他者を容赦なく批評しているかから自分も批評されてもしかたがないはずである。それをただ讃えるだけしか許されないというのは公平ではない、正当な評価は必要だしこうした戦争の経験も後世に語り残して読まれようにしておくのが本意である。ただ生きている間はなかなかむずかしいかもしれない、二三行の引用は許されるにしても詩の全部をのせるとなると許可いるのかもしれない、そのままのせている人もいる。いづれにしろ正当な批評評価は相互にまねがれることができないのだ。
「硫黄島からの手紙」 栗林中将の短歌から (上野霄里氏の鎮魂歌を読む)
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#ioujima
引用のル-ル
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/2534/quotation.html
著作者の許諾なしで引用できる・・・しかし引用が従であり主文が引用を補強するものとある。
引用するのにも引用するものが従になり主文があくまでもその人の創作、個性を現していて
引用するものはあくまでもその人の個性に従う時、引用は許される
となると引用すること時代相当むずかしいものとなるのだ。
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