大いなる山-現代の一者、覚者の声
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#oneman (上野霄里氏の部)
ホ-ムペ-ジでは相当な量を書いてきた。上野霄里氏という人物は現代の本物の天才だから理解することがむずかしい。こういう人はその時代だけで理解できない、存在が大きすぎるからだ。能才はコマ-シャリズムにのって時代の脚光をあびる、「バカの壁」とか消耗品として何百万売れたとかなる。でもすぐに忘れ去られるのだ。本物の天才は次の時代さらに次の時代へと大きな光芒を放つ、今の時代だけで理解することができないのである。そしてその時代を適格に批判できたのは一人の一者たる覚者だとなる。指標とすべきはこの一者たる覚者なのである。それは社会からは認められない、轟々たる批判しかないのだ。上野霄里氏からは若いとき熱いメッセ-ジを送ってもらった。ただそれをその時一部しか理解できなかった。上野氏の言葉は簡単に理解できない、相当時間がかかるし一時代でも理解されないものなのだ。今その熱いメッセ-ジを解読しようとしているが手紙の字は読みにくい、全然読んでいないものもあった。郷土史の戦争の資料になるようなものもあった。これらも読んでいなかったし埋もれていた。本に書いたものと手紙の文を解読すればさらに理解が深まるかもしれない、ただ著作権の問題があるので利用することは今のところはむずかしいかもしれないがその熱いメッセ-ジは今またよみがえって詩を書いたのである。60になってやっと理解するということもあるものだと思った。凡才で時間をかければ理解できるものがあるのだ。上野霄里氏の部に書いたのは2008年1月以来だった。ここ三年間は介護に追われ余裕がなかった。余裕ができればまた書き続けることができるだろう。インタ-ネットならいくらでも書けるのが強みである。ただこれもどれだけ読まれているか反応がないことが問題であった。対話しろというときインタ-ネットでは対話する相手がつかめないのが問題なのである。
裸の楽園の島(NHK-トビウオ街道を行く・・・・)
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#paladise
これも連続しているものとして上野霄里氏の部にコピ-しました。
>> 俺もしばらく、小林勇一の事が理解できませんでした。というよりも、視ようとすらしていませんでした。身近なものを観ることがどんな意味があるのか見えなかったからです。
そして、時事問題は風化し易いという思い込みもあって、文明批判ばかり求めてきた。それは変わらないが、身近にあるものからも文明の病根を見ることができるのだと実感させられました。その行動を生き抜いているわずかの者の一人に小林氏が居ることを認めたからです。俺が真剣でなかったから見えなかったことを俺はわかった気がします。そして、それを通して自由を行動するのだと想う
ずいぶん時事問題の深層から書いてきたけど
確かに反応はなかった
でも書き続けてきたのは書くことが自分を知り
他者をしることでもある
書いていると何かが明確になってゆく
文章にしなければ漠然としたものとして終わっている、書くこと自体に魅せられて書きつづけてきたということがあります
文明批判は上野霄里氏から受け継いだものだけど彼も孤高の人だったけど
そもそもつくづく芸術を思想を宗教を追求することは孤高の仕事である。
大衆と迎合すれば第一級の人にもなれない
第一級の作品もものにすることはできない
私は誰に認められなくても第一級のものを追求してゆく それが芸術なり何でも最高のものを目指せばそうなる宿命です
時事問題でも身近な問題でもやはり普遍的真理から見る目が必要でしょう
人間はやはり日々起こっていることに一番関心がありますから
でもそうした日々の出来事も歴史的普遍的真理から観ることが必要なんです