でも街の魅力に欠かせないものがある。歴史と自然なのである。私は内向的性格故喫茶店が好きだった。喫茶店で本を読んだり音楽を聴いて瞑想したりするのが好きだった。今は喫茶店の数が激減した。旅をして喫茶店に休もうとすると喫茶店だけやっているのはまれである。地方では喫茶店は前は安かったが今は倍以上になっている。なかなか簡単に休むわけにもいかなくなっている。喫茶店だけでは商売が成り立たなくなってしまった。でも街を歩き旅では喫茶店は必需品なのだ。盛岡には歴史があり北上川と中津川が川のアンサブルとなってクラシカルな雰囲気とモダンな雰囲気をかもしだす、それは啄木や賢治の時代からそうだったのだ。その象徴として煉瓦の明治時代の岩手銀行が残っている。また擬宝珠の橋など橋を人が歩いているのを見ているだけで絵になっているのが盛岡である。まるで浮世絵の一場面を見るようなのだ。そこでは着物姿の女性もあっている。それほど騒々しくないのだ。過去と現代が融合している街なのである。こういう街はめずらしい、新しい街は喧騒の中に在り情緒がなく利便性があってもなごみがないのだ。今回中津川の岸辺の喫茶店でホットユズなるものを飲んで休んだ。これもモダンなものなのだ。新幹線だとあそこのホットユズ飲みに行こうかともなる。仙台だと定禅寺通りの欅並木がいい、盛岡が全体が歴史と自然が融合して魅力がある。他に深草とか駅前のプラタナスの通りにも喫茶店がある。喫茶店回りも一つの街歩きの楽しみとなる。新幹線で仙台と盛岡の両方を楽しむことができるのだ。
車社会は利便性を追求した最たるものだったが伝統的なもの自然すら破壊した。しかし利便性のために今や車を手放すことはできないのだ。ただそれによって街の魅力は失われた。やはり現実に生活としてし活きていなければ街に活気ができないからだ。ショッピングセンタ-やコンビニでもそこにあるのは利便性だけなのである。情緒的なものはそこでは養われない、そんなもの贅沢であり必要ないものだと言えばそれまでだがやはり淋しいものがある。情緒的なものは精神にも影響するから必ずしも無視できないのだ。近頃は老人もキレやすい、怒り安いというのは今の老人で劣化したからではない、車社会はそもそキレ安い心を作るのだ。車というのは通り歩み人間が出会うのとは違う、完全に徒歩者を無視するキレてしまう乗り物だからである。さらに牛や馬を相手にしていた時代なら相手は生き物だからキレてはつきあいない、そこでは忍耐力が自然と養われた生活になっていたのだ。情緒と心は自然環境だけではない、街の環境からも作られのである。ヨ-ロッパの古い都市を歩くと古い石の建造物に囲まれ精神もそこで昔に帰る、不思議に建築の心が備わるから不思議である。人間が古代建築的に影響されて精神も堅実なものとなってゆく不思議があるのだ。それは石とか石畳の道とかに影響される。ヨ-ロッパの都市を歩いてなるほどヨ-ロッパの文化はこういうものかこうして形作られたのかと理屈なしで実感できるのだ。日本の街が雑然として魅力ないのは歴史を無視して利便性のみを追求したからだろう。ヨ-ロッパでは石の文化だから古代が土に埋もれて残っていることもその精神形成に今も影響しているのだ。日本は木の文化で過去が残らないということが精神形成に影響しているのだ。日本文化が伝統が失われたというときやはり歴史的街並みが失われたことも影響しているのである。 江戸時代の精神性は日本の伝統と歴史と自然の中で養われ作られてきた。それが明治維新で西欧化して変質を重ねていった。そしてアメリカの敗戦のあと現在にいたっている。その過程で日本的な精神を伝統を受け継ぎ精神を形成するものを失ったのである。それは本読んだからとか一人の師に教えられて受け継がれるものではない、時代の全体の環境から受け継がれるものだから日本人の良さは受け継がれず日本の文化は消失しつつあるのだ。
中津川冬の岸辺の喫茶店ホットユズ飲み心あたたむ
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