宮沢賢治というと万能の天才のレオナルド・ダビンチとにていた。それにしてもフィレンツというルネサンス文化を作った天才が集合したなかで生まれたのである。賢治の場合は東北の文化的にも孤立した中で一人異才を発揮したのである。それが大正時代とかであり科学は発達してきたにしろ現代から比べるとその差は大きい。鉄道にしても岩手軽便鉄道とかまだまだ整備されていない時代である。それでも銀河鉄道とかの童話やその他、詩にしても時代を越えていたし現代にも通じてさらに二十一世紀にも通じているものを作り出していたイメ-ジ化していたのである。すでに理系と文系の両方の才能あること自体まれである。たいがい文学に通じていれば理数系はだめなのが普通なのだ。自分にしても俳句とか短歌が出発点でありそれも若いときはやっと定型のなかに嵌まるように文字を並べていただけである。アララギ派とかは地味でありその出発点からして違っているしそうした伝統的を枠を越えて創作していたのである。つまり今の時点なら賢治のような文学は現実のものとして創作できる。自分自身も現実に最先端の新幹線に乗ったから この詩をまねて賢治風にアレンジできた。でも賢治なら頭の中で百年前にイメ-ジされていたのである。
正岡子規とか啄木にしても文学に新しい価値観を作り出したことで評価がある。写生という西洋美術の価値観を取り入れ啄木は短歌に今までにない独自の観点を作り出したことで文学の伝統を革新した。それも啄木は26歳とか子規は35歳とか賢治は37歳とかでみんな肺病で死んでいるのだ。そういう早熟の天才でしか才能は実らすことはできない時代だったのである。現代のような信じられないような長生きの時代は才能を実らす人は相当でてくる。そもそも学問にしても「少年老いやすく学なりがたし・・・」である。学問も相当時間をかけないと理解できないものである。天才でなくてもグロ-バル化の時代にある一国を詳しくなることができる。でもすべての国に詳しくなることはどんな天才でもできないのだ。知識は膨大であり一人が知るには限りがあるからだ。だから長生きの時代は天才でなくても積み重ねでそれぞれの才能を実らすことができるのだ。60年も生きればすでに賢治の倍も生きるから理解力がでてくる。雑学ですら一つの分野に詳しくなることはむずかしいのだ。地名学を創設したがこれにしても膨大な知識が必要であり今インタ-ネットでは郷土史の分野でルネサンスが起きていることは確かである。何故なら地名はどこの村でも町でも紹介しているからである。
現代はレオナルド・ダビンチがイメ-ジした科学の世界が現実化している。そして世界旅行も当たり前の事であり知識は無限大に広がりそれも現実に実地を踏んでいる時代である。賢治は高等遊民ともなる特別の余裕がある家で才能を開花できた。今はフリ-タ-とかニ-トとかそうした余裕のある青年がいることが当たり前の時代になったから問題になっているのだ。団塊の高度成長の時代ですらその数は今の百万とかの数などはいない、極めて少数でありそれは変わり者のアウトサイダ-になった。今は平気で高等遊民を目指すとか言っても誰も特別とがめるということもない時代である。もちろん数が余りに多すぎて社会的問題になっている。それだけ当たり前になっているから社会問題になるのである。今の時代は科学にしても過去にイメ-ジ化したこと現実化している。それが当たり前の経験となり驚くこともない時代である。だからルネサンスが起きる下地は広範囲にできているのだ。インタ-ネットなどもその一つであり賢治ならエスペラントなどをもしていたのだから世界から知識をとりいれことができた。なぜなら百年前にあれだけのことを東北で孤立してイメ-ジできたのだから今ならそれは現実だからである。つまり長生きの時代は多様な才能が開花することが一面プラスの面としてあるのだ。その反対の暗黒面として認知症があったのだ。余りにも長生きが多くなったせいで脳の老化が一般化して知能が低下する病気がふえたのである。何でも言い面と悪い面が生まれる。高齢化のいい面としては多様な才能が開花しやすいことである。そういうお膳建てすでにあり高齢化になるとさらに成熟化してくるし早熟の天才でなくても才能もこつこつ積み重ねてゆけばそれなりのものとして開花してゆくのである。30年の旅でもあとでその見聞や経験が生きてくるからだ。世界旅行も当たり前の時代でありそうしたものも後年活きてくるからだ。高齢化社会の暗黒面だけをとりあげてきたが明るい面としては明らかに多様な才能が開花しやすいことは確かなのである。
新幹線にケンジ(賢治)が乗っている!
http://musubu.sblo.jp/article/24461576.html
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