2006年12月16日

定めと耐ゆる石一つ(幸不幸は最後までわからない)


冬日さし定めと耐ゆる石一つ古木の下に動かざるかな

冬の日に負わさるる苦やひそかにも耐えて生き抜く人のありしも




人間の幸不幸ほど不可解なものはない、何が幸せになるのか不幸になるのか誰も予測もできないしわからないからだ。何が幸せの原因となり何が不幸の原因になるかわからない、才能があれば金があれば美貌があれば幸せだとかいろいろ幸せのことを言うが果たしてそれが本当に人生にとって幸せの原因になっていたのか?幸せの原因と思っていたものが不幸にもなるのが人生なのだ。家康は幼少時から人質にされ不運な忍従の生活を強いられた。それは明らかに不幸だったがこれが幸せの原因を作ったというのも確かなのだ。つまり忍耐力がついていたから不幸なことに耐えることができた。石のような忍耐力がついていたから信長や秀吉の派手さがない、天才でなくても忍耐力があり忍耐しているうち自然と天下が家康のものとなってしまったのだ。信長が殺され秀吉も死んで生き残ったのは家康だったからである。それでも家康は75で死んでいるのだ。これと意外である。現代の長寿社会は90が普通だとするとさらに15年間長いのだ。これが何を意味しているのか?人生はとてつもない長い目で生きることが要求されているのだ。50、60で死ぬとするとそれは夢中で生きているうち過去をふりかえるまもなく死んでいる。退職して60からさらに20年、30年を生きるとしたらそれは今まで経験したことのない長さを生きることになる。これだけの長寿社会は今まで経験したことがないのである。ただ人生は90、100まで生きても短いと言えば短いのであるが人生は長いスパンで考えざるをえなくなっている。60でもう終わりだというわけにいかなくなっている。

この長寿社会、超高齢化社会は一方で様々な問題を引き起こす。長寿に耐えられないものは認知症になり大変な迷惑人間となり社会の大負担となり脳梗塞になると10年の介護はめずらしくないのだ。医療の発達で脳梗塞でも10年くらい生き続けられるが介護する方にしてみればぞっとする長さなのだ。現実そうして介護した人がいて退職して10年間介護に費やされこれでいいのかとか疑問に思っているのもわかるのだ。一面それだけ介護に費やされる人生が不毛のように思えてしまうのも当然なのだ。介護には確かに生きがいとなるもの意味あるものなのだがその犠牲があまりに負担になると本当にそれが意味あるのかどうか疑問になる。介護10年となるとその時間の苦痛の重みは経験した人しかわからないだろう。石のようなものを抱いて暮らしてきた感じにならないか?死んではじめてかかえてきた石の重みから解放されるような気分にならないか?プログでそういう人がかなりいて読んでいるだけで気が重くなるのだ。私の介護は世話はまだ序の口であるから愛が大事だとか言っていられる。介護10年となると愛というのではない、ただ仕方がない定めとして見放すわけにもいかないから介護しているとなってしまう。こうした介護という問題も超高齢化社会の結果起きてきているのだ。

ともかく人間の幸不幸は誰も予測がつかないし定めることができない、しかし人間にはどうしたって運命と定めがある。まず生まれた場所が運命の定めの場所となるし生まれた家族もそうである。その場所がどんな所であれまた家族がどんな家族であれそれは定められたものとなる。家康もそうした家に生まれたからそれに従わざるをえなかった。そして江戸時代であれ明治大正時代は女性は忍従を強いられた。まず離婚などできなかった。一旦結婚したらほとんど離婚はできないのが普通だった。結婚することはほとんど宿命的なことになった。
それが現代では離婚することが当たり前であり三人に一人は離婚している。ではこうした自由が幸福をもたらしているかというとそうでもない、子供は確実に不幸になっている。自由はいいのだが子供には不幸をもたらして子供の幸福を犠牲にしているのだ。戦前までは子供は親のために働き結婚したら夫に忍従するというのが普通でありめったに離婚はしないから犠牲になったのは親の方である。これもでは不幸かというと人生の最後までわからないのだ。嫌だからとすぐに離婚して結果的には不幸になっている人も多いし忍従しても最後に幸福だと感じている人もいる。会社を合わないからすぐやめる若者が多いがではやめてみて幸福だったかというと転職して失敗したという人も多い。もっとがまんして勤めていればよかったとかなる。結局その結果は最後までわからないのだ。その家に嫁いだのは宿命として勤めて幸福になる女性もいるし嫌だと離婚できても不幸になる女性もいる。むしろ現代は簡単に離婚して自由になれるが故に不幸を生んでいるともなる。現代の若者は一時の激情で切れる人間が多い、これも恐ろしい犯罪となりあとで後悔してもしきれないという不幸の原因を作っている。

いづれにしろ人間にはどうしても運命が定めがある。その定めを破らねばならないときもあるが従い忍従せねばならないときがある。運命にただ従うのもいいとは限らないがまた忍従しなければならないことも多々ある。でも人生は忍耐を強いられることが全般的に多い、忍耐しないと結果的に幸より不幸になっているのが多いのだ。だから弟に生まれて損だとか金持ちの家に生まれないで損だったとかいろいろな不満を言っても境遇の不満を言ってもそれが幸福にはつながらない、それは定めであり運命でありどうしようもないからだ。では境遇に恵まれた人間が幸福になるかというとそうでもない、幸不幸は最後までわからない、介護される身になると金持ちの親であっても冷たいとか貧乏な親であってもその子供たちはやさしいとかなっている。そもそも人生は幸福を求める所ではない、幸福はこの世にはない、忍耐する場所がこの世なのだから幸福を求めること自体間違っていたとなる。快楽を求めては苦さを知るし幸福感というのはその人によっても違うし幸福は計りがたいものである。明らかなことは幸福を求めること自体が過ちであり幸福を求めたらそれは不幸の原因だったとなるのが人生では普通に起こっていることだったのだ。自分の家の状態は確かに確実にあまりに不幸なのだが一面それなりに落ち着いたから多少は良くなったともいえる。これも予測しえない運命の結果だったともなるのだ。

古木とは家系とか運命的なものでありその下に耐える石、そういうことが人生には多いのである。誰でもこの家系とか運命的なものの下に生まれているのだ。
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