2008年12月13日

冬の暮(茶とコ-ヒ-の話)


吾もたずぬ京の大原知られしもここにも大原冬のくれかな

 
大原に行ったのはずいぶん前の話になった。バスで一時間ゆられたとすると相当遠い奥地である。なぜ今また大原に注目したかというと原町の名前の起こりから大原村というのが南相馬市-前の原町市にあった。そこも街から離れた奥まったところであった。大原と地形的にもにているのかと思った。大原という地名は全国にあるからめずらしくない、大原としりあそこも奥まった所でありここも奥まったところだと思い連想したのである。旅をすると外国でも日本の地形とか歴史とか重ねてみると興味がわく、やはり地形というのが歴史を左右するからである。ただその地形を理解するのがむずかしい。これは地図で見ただけでもわからない、その場を踏まないと実感できないからである。平泉にしても京都との距離感を実感として知ればその遠さから歴史を偲ぶことができるのだ。
 
森本哲郎氏が伝統を日本人は伝統を切り捨てる天才だと毎日新聞に書いて次の啄木の歌が好きだと紹介している。
 

なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに顔にかかれり

 

  

明治時代はまだお茶の時代だった。その後紅茶やコ-ヒ-やらいろいろ飲み物が入ってきたのだ。でもいち早くコ-ヒ-を飲んだのが天皇陛下だったというのも面白い。
珈琲の普及といえば、お店の開店の何倍もの効果がある、ある情報が明治39年に日本中を駆け巡りました。
8月21日付けの「時事新報」です。
それによると.....
「両陛下は『金のお茶釜』で、朝のコーヒーを召し上がることを定例としている。一度煮沸かした水を金の茶釜に入れ再び煮沸かして奉る。茶釜の大きさは、直径40センチのものに二つの銀環を付したもので、昔、豊臣秀吉が関白の時、茶の湯に使用した物であるという
http://www.y-21gp.com/coffee/STORY/storyAF.html


茶釜でコ-ヒ-を沸かしていたというからこれも面白い、でも茶道とコ-ヒ-は全く別物である。茶は仏教とか古い歴史がある。茶は最初は薬だった。日本で茶道になったのはそれなりの文化を形成した。茶は日本的な文化として融合したのである。でもコ-ヒ-は茶とはかなり違っている。コ-ヒ-にも文化がありコ-ヒ-は今は欠かせない、コ-ヒ-はやはり喫茶店にあっていて街の通りでコ-ヒを飲みながらゆく人などをながめているのがあっている。茶室などの密閉した世界での茶道の世界とは違った解放的なものなのだ。
 
定禅寺窓に枯木や珈琲飲む
 
仙台の定禅寺通りで窓から人の行くのをながめ欅の並木の枯木を見てコ-ヒ-を飲むのは安らぐ、喫茶店は場所が影響する。外の景色が見えないと何か閉塞感にとらわれるのだ。茶室は余りにも閉塞した空間であり密談するために作られたのかもしれない、戦国時代に興隆したのだから武人達の連絡する秘密の場所として茶室があったのかもしれない、それも一つの文化なのだが現代ではそぐわなくなったのである。
現代の情報の摂取も余りにも変わってしまった。こうしてリアルタイムで反応するのもインタ-ネットがあるからだ。そして前なら書く人ともの言える人と読む人が明確に別れていた。ところが今は誰でもインタ-ネットを通じて書けるし何か反応できるのだ。そこが大きなメデアの相違なのである。この文も検索してつなぎ合わせて書いたのである。
 
 

大原を回想して
http://www.musubu.jp/hyouronoohara.htm

 
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/24243973
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック