新年に雪の蔵王を仰ぎつつ太平洋の浪の音ひびく
轟ける太平洋の浪の音に今年も走るかなた目指して
新築の家建つひびき冬の空
年明けて浦穏やかに舟溜
親子して郷土の神社に初詣
元旦は晴れたので自転車で相馬まで海沿いを回ってきた。やっぱり自転車で走ると気持ちいいのだ。八沢浦から蔵王が大きく見えることの不思議である。あそこは湾を干拓したところだから一段低くなっているから見えるのだろう。相馬市の方からは見えないのだ。山にさえぎられ見えないのだ。
奥(みちのく)を ふたわけさまに 聳(そび)えたまふ 蔵王の山の 雲の中に立つ(斉藤茂吉)
この歌は有名なんだけどみちのくを二つに分けた様に蔵王が大きくそびえている。福島県と山形県と宮城県から蔵王が見えるのだ。磐梯山とか他の山は高くても見えないが三県から蔵王が見えるからみちのくを二つに分けたようにという形容が一応活きている。二つに分けるというのではなく三つの県から見えるということがこの表現が活かしている。宮城県と山形県を分けているかもしれないが福島県までは分けていないからだ。ただ三つの県から見えるということが蔵王を象徴しているのだ。福島県の浜通りからは高い山は見えないから物足りないものとなっているが蔵王が見えることは気持ちいいのだ。
芸術の評価はかなりむずかしい、百年後に評価されたり多数に認められても価値ないとかされることがよくある。ふたわけさまという表現はあっていないがみちのくの三つの県から見えるということでこの表現は活きているのだ。斉藤茂吉もそれなりに名歌を残してはいるがそれほどに評価されるものか疑わしい、芸術の評価はむずかしい。つまり相当その人の歌やら何やら詳しくならなければ批評できない、一冊の本を書くくらい研究しないと批評できないし軽はずみなことはいえないからである。
今日はこの辺にして明日相馬編のつづきを書こう。

人間というのはそもそも相手を理解すること自体むずかしい、ただ精神を病んでいる人は現代には非常に多いのだ。私も身近にち多少痴呆になった老人をかかえているからわかる。こういう精神を患った人達は社会から隔離せずなんとか一緒にいる方法が必要である。この人がプログであれ社会にかかわろうとしているのはいいことである。トラックバックされれば今は一応読みにゆくが相手をすぐに理解することはむずかしい。
なぜこの新年の歌のタイトルにトラックバックしたのか係わりがちょっとわかりにくい、一応ここにトラックバックしたのだからここに書いてみた、相手のサイトに書くのがトラックバックの返事なのだろうが・・・前のも返事書いたのだがどこに書いたかわからなくなっている・・それでもう一回他に書いてみた・・・・
ここにトラックバックされたけどなぜか良くわからない、鬱病と戦っている方のようだがどう返事していいかわからん、トラックバックされたサイトを読んだのは読んだが今のところ良くわからない、ここに返事書いてみた、前にも一件トラックバックされた方があり返事は書いたがどこかわからなくなった・・・・