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プログの「今日の一句一首」とともに
俳句短歌などの鑑賞の手助けにしてください
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・・・・・削除した俳句・・・・・・
枯菊
飯館は雪になるらし年暮れぬ
枯れし菊三輪見いだすこの道に
(この道に残菊三輪見いだしぬ)
菊というと晩菊、残菊、枯菊、冬菊、寒菊・・とかいろいろある。この季語のイメ-ジはみな違っている。残菊というと実際は秋だけでなく冬にもふさわしいのである。残菊は冬の季語の方がふさわしいかもしれない、三輪の残菊にしても良かったのである。季語は誰が決めたかわからないが全部決まってわけではないし新しい季語もぞくぞく生まれているのだ。
枯菊にしようとしたが枯れたとなると菊の形を留めないようなのが枯菊としてイメ-ジされる。残菊となると菊の形はまだある菊である。今日見たのは明らかに小さな菊三輪だった。色は薄れているが菊の形は明確であった。枯菊と枯れし菊とは微妙だが違っている。どのくらい枯れたか明確ではないが枯菊となると本当に形もととめず枯れた感じになる。枯れし菊となるとどのくらい枯れたかわからないが段階がある。これは明日デジカメで写真にとればわかってもらえるだろう。ここでデジカメが貴重なものとなる。何に出合うかわからないからデジカメは持って歩くべきなのだ。写真を見れば見た人は枯れし菊がいいか枯菊がいいかわかるだろう。投票とかコメントしてもらうのもいいだろう。匿名でもこうしたことはやりやすいが投票システムが作れないからだめだ。
今年も終わりだが山の方は暗くなり厚い雲がたれこめ雪になっているみたいだ。ここも曇って霙が降った。明日は雪になるのだろうか、今年も明日で終わりだ。今や正月気分はない、単に年が変わるという筋目にすぎない、ただ正月とは日本の文化だったからこれが失われたのは淋しい。番組も同じようなもので見るべきものがなくなった。やはり放送自体変わり目にきている。もっと少人数を対象にすればいろいろ番組はいくらでも作れるのだ。それがインタ-ネットだったのである。ここにはいくらでも番組にする材料があるからだ。地名のことについて書いたけど京都の地名を紹介する番組だって作れる。それを見るものは少ないにしてもそうした番組も成り立ってくるのがインタ-ネットなのだ。だからデジタル放送は同じ六局が伝播を独占するのだからそこからそれぞれにあった番組は出てこないのだ。ハ-ドが変わってもソフトが変わらないからなんら変化ない詐欺的なものだったのだ。むしろ地方でも市町村や企業が独自で作ったビデオやらを流すようになるのがこれからの番組なのである。
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残菊と石
石四つ残菊に薄る陽ざしかな
極月や庭石四つ夜はふけぬ残菊と石
残菊の風に吹かれて日は薄る
石四つここに幾年ありにける
この庭を知れる人もなきしや
極月石を照らして夜はふけぬ
これも写生である。石何個とか写生はどうしてもなるのだ。禅寺の庭のようなものである。まず写生がありここからいろいろな物語も作られる。残菊となれば平家の落人とかイメ-ジしたりいろいろそれぞれにイメ-ジされる。しかしその元は写生なのである。こういう光景は大原の三千院辺りがにつかわしいのだ。写生でもここの四つの石は写真にするとなんかみすぼらしい、ぴったりしないからいい庭の四つの石をイメ-ジした方がいい。写生でもそれが写真にしたときみすぼらしいぴったりしないものがでてくるのだ。逆に写真にするとその細部が見えて発見がある。だから必ずしも全部を写真にしていい場合もあるが良くない場合もある。ともかくこの頃一二月にしては寒すぎる。寒さにも暑さにも弱いから極端になくとだめだ。
詩は漢詩にもなるが漢詩は作れない、まず写生の俳句があり次に短歌とか漢詩とか詩に物語に発展するのである。
http://hero.maxs.jp/050/kokei1.html
このペ-ジの月が水にゆらめいて池に映っているのは感動ものだ
これも明らかにパソコンの新しい芸術だ
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寒雁
寒雁やはや光りいず月を見る
石四つ今日も寒さに耐えてをり
the endurance of the four stones
in the coldest days
冬の雁という季語で前に作った。寒がつと寒月でも一月以降のさらに寒い感じになる。
今年のような寒さを今まで経験したことない、夕べ雁が飛んで行きそのあとにすぐ月が皓々と光る。月と雁というのはあっているテ-マなのかもしれない、こうしたものを漢詩と合わせて読めばいいしインタ-ネットで調べればいいかもしれない、こう寒くなると石四つでもともに耐えるという感じ、連帯感がででくる。暑さではこうならないがこう寒いと寒さをみんなで耐える、しのぐという感じになる。こうした寒さのなかで石というものが別な存在感を持ってきた。気候によって自然の物の存在感が変わって来ることをこの冬は体験した。北海道の人とかロシア人のみている自然は明らかに違ったものになることは確かである。熱帯にある石と極寒の地にある石は違ったものになるのである。寒い方が石の無機質な存在感はましてくることがわかった。
プログはなんか毎日書きつづけねばならない、強制的に書かされるという感じになる。こういうことは余り普通の人にはないだろう、でも締め切りを迫られる作家や番組作りしている人は新聞を出す人でも必ず月極めでも週単位でも何かを出さねばならぬのだ。プログは日記形式だから毎日出すのが基本なのである。短い文だからできることはできるが毎日となると大変だともなる。ただこうした強制されるように書いているからなんとか書かねばならないとなるから書けることもある。そういうことは普通の人には要求されなかったからある意味で創作する人にとってはインタ-ネットは実に便利なものなのである。
ただプログは自分なりにレイアウトとかその他できないから困る。庭の石の写真も偶然に配置することができたのでありHTMLがいじれないので自分なりのものが作れないのが一番困ったことであった。
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冬の山
一人のみ会いて下りぬ冬の山
冬日さしや仁宮仕法の家残る
悪きなか良きこと一つ年明けぬ
俳句を長年作ってきたけど俳句は短いから深く読むということが必要なのだ。鑑賞が大事なように思う。とるにたらないような俳句でも読み方によっては深いものがあったりするからむずかしいのだ。前の金色堂の秋の蝉の句でも「旅人に金色堂や秋の蝉」という時、この旅人は芭蕉のように人生が旅のような旅人でありちょっと休みに物見遊山の観光する観光客ではないのだ。現代では旅人であるということ自体むずかしいのだ。私の場合ず-と旅してきたからああ、長い旅をしてきて金色堂に来てみたら秋の蝉がもの淋しくひびいていたという句なのである。つまり俳句はこのように鑑賞することがむずかしいのである。
仁宮仕法というのは仁宮尊徳が指導した茅葺きの農家が記念として残っている。質素倹約を教えたのだから冬の日にふさわしい家である。冬の山を上ってあったのは一人だけだった。これも冬の山にふさわしいことだった。もう老年に会う人は少ないのである。しかしその中で会う一人はいつまでも印象深いものとなる。今年は最初から最悪の年だった。今度は自分が腰を痛めたのだ。原因は不明だ。俳句とか短歌は子規があんなひどい病気でも作ることができたのだからできる。短いから作れるのだ。このインタ-ネットやプログの便利さは病気やインタ-ネットでもこのくらいの短い文なら出しつづけることができるのだ。それほど便利なものである。これが今までの方法だと印刷からなにからめんどうでできないのである。まあ、これほど悪いなかにも一つだけいいことがあった。連絡がなかった母の孫から連絡があった。食べ物のが入ったものも宅急便で送られてきた。これはかなりいい便りだった。
2005年12月31日
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筆まかせ 霜の街
Excerpt: 霜の街 烏いや黒く餌漁る霜の街 林檎賣り袖寄せ手揉む朝路地に 震へ氣な聲英氣粘つかせ萎靡せぬやうな空 罪の世を見舞ひたぬしむ演技はね 音忘れ渡れぬ井戸をにほへ夢 からすいやくろく..
Weblog: いろは 伊呂波 IROHA
Tracked: 2005-12-31 05:18
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今のところプログのことよくわかりません
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コメントがありましたので
一言レスを書かせていただきます
冬透きてとほる日差に温まれる
野猫や楡の落ち葉がほとり
冬透きて・・・という言葉があったんですね
静かな冬の日が老年には冬の日ざしに透き通ってくる感じがする
そこに猫のように日向ぼっこしているのがなんともいえない幸せを感じる
ただ野猫となると家猫と違うからどうかなとも
思いますが・・・・・
文語から漢詩から英語まで使われているのでずいぶん語学にたけた方のようですね
なかなか内容を理解するのはむずかしいようです
コメントされた方のプログサイトは一応読みにはゆきますのでリンクしてみてください