2005年12月30日

冬耕

fuyuhatasanku.JPG


前畑に老夫婦あり冬日没る

冬の日や箱を集める夫婦かな

冬耕の老の一人や里暮れぬ


前畑とか前田とか門田はすぐ家の近くで即仕事場なのである。農家は庭も脱穀したり仕事場だった。農家は家も蚕とか馬を飼っていたりと仕事場になっていた。私が見た光景も全く平凡そのものの仕事している風景にすぎない、これは全くなんの変哲もないいつも見かける光景である。こうした句は誰かも作っている。それほどありふれた見慣れた光景なのだ。優美な山とか花を題材にしているわけではないからだ。しかしなぜここに心うたれるものがあったのか?静かな冬の日にひっそりとダンボ-ル箱を集めている。それは割りのいい仕事ではない、その仕事をしている夫婦は意外と若かった。こういう仕事は年配の夫婦がしていることが多いからだ。今や仕事というと一千万もらっている医者さえ不満たらたらでありネットで愚痴をこぼしている。一体いくらもらったら満足するのだろうか?すべて金で仕事の満足感を計っているのが現代である。

しかし仕事には仕事すること自体に意味がある。農業には仕事すること自体天地と和する融合することなのである。農業とか漁業とか遊牧などでも仕事自体が自然と深くかかわるからありふれたものでも深い意味があるのだ。農業でないにしろ単に物を運ぶ仕事でも戸外で仕事しているのを見るとそこに人間の営みとしての意味を感じる。現代は人が仕事している姿が見えない、工場とか事務所とかで働いていても働く姿が見えないのだ。だから外からみて仕事の意味が見いだせないのだ。人間が働くということは実際は尊い意味があるのだがそれがわからないのだ。江戸時代とかその働く姿が見えるから仕事の意味も実感できた。

冬耕という季語自体にすでに多くの意味がふくまれている。老人一人が里の畑を耕すこと、それはありふれたことだが老人がなお里を働いて支えている姿なのである。それは深い意味があるものなのだ。では江戸時代の俳句に農民的なものがあるかというと意外とない、というのは俳句を残したのは比較的裕福な商家の人が多かったからだ。商人的眼で俳句を作っているのが多いのだ。蕪村は確かに農民的な眼を持っていたがやはり文人墨客的な見方が多い。ただ市井の人への農民への眼差しがあったことは確かである。現代は逆に農民でもいくらでも詩でも俳句でも作るしめずらしくない、だから農民的な俳句がいたるところにある。ただ読んでいないし鑑賞していないだけである。

俳句は鑑賞力が大事なのだ。何故なら短いから鑑賞するのがむずかしい、深く読みこむことがむずかしいからだ。俳句を作る人も大事だが俳句を鑑賞する人もそれに劣らず大事なのだ。芸術は鑑賞できる人もそれなりに芸術家だともなる。私が作ったこの三つの俳句に自分は感じ入るものがあったが他の人はなんだこんなものが俳句かとなり意味を認めない人もいるだろう。芸術はあまり変わったものに注意を向けると本当のものはできない、そうした変わったことは時代的にはめったに起こらない、明治維新のようなことをもはや起こらない、志士になれとかいうのは時代にあわない、むしろ江戸時代の平凡な日々の生活に意味を見いだすのがこれからの時代なのである。だから明治より江戸時代を知ることが大事になってくるのだ。

江戸時代の回帰(次の時代の模索)-時事問題の深層(本サイト)http://www.musubu.jp/jijimondai31.htm#edo

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