寒星や風吹きすさび家ゆする
しんとして足音もなき寒夜かな
常に行く樹々の枯葉の見過ごして散れる時こそ心騒ぎぬ
十人くらい死んだ人の名を読み上げている。そういえばそんな人いたなと思った。月日はたちまち過ぎて忘れ去れる。八十以上になると死んだ人を数える方が多くなる。これも人の世の無情である。あんな人いたな、あの人はどんな人だったのかそのことさえ記憶が定かでなくなる。人間はそれほど覚えられないもの、忘れ去れるものなのだ。わずかに多少ぼけた老人に読み上げられてああ、あんな人いたなと思うくらいで全く忘れていた。思い出すこともなかった。人間の生きた証もなにもない、ただ普通の人は忘れられてゆくだけである。なんか多少ぼけた老人に読み上げられている死人の名だから滑稽にもなっているのだ。ぼけ老人に回想される故人というのもなんか奇妙である。それほど人間もはかないということかもしれん。
いつも行く道の樹々の枯葉を見過ごしいて何も感じなかったが風が吹き散った時、その散る枯葉に心が騒いだ。他の人間に無関心でも死んだ時はええ、なぜ死んだのか、知っている人が死んだ時、心が騒ぐ、普通はほとんど関心なくても死んだ時くらいはその時は思うがたちまち忘れられてしまうの人間である。年の暮にはそれぞれ人であれいろいろと回想する時である。
しんとして足音もないこの頃の寒い夜というのもいいものである。あまりに多くが騒ぎすぎるのが現代だからこのような静寂も心鎮めるのには必要なのだ。
そういう場所が必要なのだ。江戸時代辺りは江戸でもそういう場所がかなりあったのだ。どこの都会でも今よりはずっと閑散としていたのだ。
足音の消えて時雨の又寝かな (坂本朱拙)
騒音の時代にこうした静けさの句がなかなかできにくい、自動車の騒音とかに人間の足音は消される。微妙な感覚がもてないのだ。江戸時代の静寂は今では信じられないものだった。物音一つしないような深夜が普通だったのである。
江戸時代の句の深さがそうした静寂の世界から生まれたのだ。それは今ではありえない世界である。誰かの足音が消えて行ったがその足音の余韻は残っているのだ。
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