足軽の五十人町や冬鴎
仙台の三百人町や年の暮
仙台の昔はどうなっていたのか、仙台についての昔はあまり考えなかった。長町から仙台に行き愛宕橋を渡るとその辺が昔の下町だった。五十人町とか六十人町とか三百人町とかあるからだ。仙台は60万石で大きいから三百人町とか足軽が住んだ地域があったのだ。そして足軽が住んだ地域は城のあった所から遠い地域に住まわされた。だから鉄道の駅の近くになっていることがある。現存している茅葺きの新発田市の足軽長屋も駅の近くにあるのだ。青葉城の下に武家屋敷があり城を守る直属の家臣が住んでいた。城と運命をともにする家臣団であった。
一方足軽は雇われた人夫のようなものでありそれらは城から遠く離れて住んでいた。これらと町人はさほど暮しが違ったものではなかった。荒物売っている荒町とか材木町とあるのはここに運河があり材木を運んだ。地名で面白いのは江戸町通りとかあり江戸から大工を読んで住まわせた町があった。大工は職人は大きな城下町ができると移住して一団で住むからそこが地名となる。それから話題になっている姉歯横丁があり荒町小学校(土樋)近くに 姉歯新左衛門の屋敷があった。姉歯は由緒ある武家の姓でもあったのだ。
国見二丁目の国見小学校北側で撮影。 北八番丁通りを西に行って、 土橋通りと交わったところからの通り。 二代藩主忠宗が取り立てた旗本足軽二十二人が、 頭髪を半分剃っていたことから「半子」と呼ばれており、 彼らが住んだことから名付けられた。
これは髪形から名付けられた。昔は職業でも身分でも服装も髪形も違っていた。だから一目見てどういう身分とか職業かわかるのである。
古代の万葉集時代でも髪形でその土地に住んでいる部族のものを区別していた。今でも中国の雲南地方などの山岳民族に変わった髪形の人達が住んでいる。
青みずら 依網の原に 人も逢うはぬかも 石走る 近江県の 物語せむ(1287)
服装の他、頭髪については男子は朝服の頃は美豆良(みずら)が飛鳥時代後半まで許されたが、以後は髷(まげ)結って冠を被ることが義務付けられた。この青みずらの青はわからないが角髷であり依網の原の枕詞になっていた。青みずらの髪形の人がそこに多くいたのか髪形を特徴として枕詞になった。
この半子もこれと多少にている。
足軽町は城下はずれには下級武士の組士,足軽が配置され防御の第一線とされた。足軽町で足軽兵によって敵が攻めてくるとき防ぐのである。寺町も防御のために作られた町である。
白石市に足軽まんじゅうというのを売っている。これの謂われは
参勤交代の行われている時代、仙台様などの大名は伊達の大木戸から越河関所を経て、又、秋田、津軽などの大名は小坂峠を通って白石の城下に入っていました。
疲れた身体でようやくたどりついた峠の茶屋には、老婆と若い嫁この作るまんじゅうがあり、「これは甘味い」と思わず声がでるほどおいしいものでした。
足軽たちからは、「お陰様で足が軽くなりました」とたいそう喜ばれたそうです。それにちなんで「伊達藩足軽まんじゅう」と名づけられました。
足軽というとき大名の下支えとして必要なものであり地名から足軽の生活が浮かんでくる。地名には昔の生活を偲ばせるものがあるのだ。昔と今が連続するときそこに町も生きてくる。仙台は大きい街だから歴史もあるから調べれば昔が偲ばれ浮かんでくる。こういう昔をたどることが人間の生活を豊かにするのである。
足軽のかたまってゆく寒さかな 井上士郎
「ぜんたい足軽などという者は、武士の恰好(かっこう)をした仲間(ちゅうげん)も同様、庭掃きか傘張り内職でもしていれば御用のたりる身分なので、それが武芸自慢をするなどとは慢上の沙汰(さた)だ」
足軽の下に仲間(ちゅうげん)がいて渡り仲間とかこれは時代劇でもヤクザまがいのがらの悪いのがでてくる。足軽はそれよりは上の身分だった。武家屋敷の門で出入りを検めたりガ-ドマン的役目とかしていた。仙台の長町から愛宕橋から五十人町などの足軽町から姉歯横町というのまであったから地名の旅は歴史なのである。
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