2008年11月04日

認知症ほど人間の無常を示すものはない


認知症ほど人間の無常を示すものはない
     
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずこへか去りし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり
                            −修証義

寄言全盛紅顔子 言を寄す全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁 まさに憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐 此の翁の白頭真に憐むべし
伊昔紅顔美少年 伊れ昔紅顔の美少年

 

李白
http://www5a.biglobe.ne.jp/~netboki/kansi.htm

 
南田洋子さんの認知症になった姿は悲惨であった。認知症という病気はこの世の無常を一番痛切に示すものだということを自ら介護して知った。そのことをづっと書いてきた。この世が無常だという時、死はまさに最大の無常である。しかし死の前に認知症になることは最も無常なことを痛切に生きながら人間が示す病気だった。老いはみんなそうだというが認知症になることは人間にとってもっとも無常を感じさせるものだと思った。往年活躍した人でも美貌も才能もある人でも人間の最後は認知症になったら無惨に崩れさる。ええ、これが人間なのか?・・・ということを何度も書いてきた。
 
人間の無常を示すもので認知症ほどそれを示したものがあるだろうか?人間とはこんなにもろくこんなにみじめにこんなにおとしめられてこんなに無惨に死んでゆくのかとあまりにもショックが大きすぎるのが認知症なのだ。確かに老いは古来みんな無常であるが認知症の無常はまた特別なのだ。単に紅顔の美少年が白髪の老人となることとは違う、人間の尊厳が失われる、馬鹿にされてしまうという衝撃なのだ。いたずらに悪魔にでももてあそばれてしまうような人間のあまりの無力が示される。直前のことが記憶できない、目の前のものが消えてなくなる・・・盗られたとか泣いて騒いでいること自体余りにも悲しい姿だった。南田洋子さんも本当に悲しい姿になった。それが認知症の真実なのだ。認知症は多少改善しても直らない、老化と深く関係しているから体が弱ることに比例して認知症になる人が多くなることでもわかる。老いはそもそも直らない病気なのだから、死にいたる病気なのだから・・・宗教的にもどうにもならないだろう。老化は止めることもできないし死もまねがれることはできない、
 

紅顔いずこへか去りし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり

 
本当にあの笑顔がどこへ行ってしまったのか、60年も一緒にいたのにどこへ行ってしまったのか・・あまりにもはかない最後だった。本当に終わって見れば人間の命は露と消えるだけである。80年生きても同じだろう。死んでみればただはかない夢幻を生きたにすぎない、国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり・・・死をまねがれることは誰もできない、死を脱することはできない、ただその時仏に主・キリストに祈る他ないのだ。死んでまた人はすぐ忘れ去れる。老人はその人自身を思うことよりその人のもっている財産の方に関心が向きやすい、衰えゆく老人には関心がない、実の子でも金をやらないとよりつかないとかすぐ死んだら相続問題が起きたりとその人間より財産の方に関心が移ってしまうし生きている時でも老いてゆく人よりその人の持っている財産の方が大事になるのも普通である。これも人間の無常を示していないか?おいぼれなど興味がないよ、昔は美人でも今はまとも見てもいられない姿だ、老人はそばにいるだけでも嫌だとかなる。財産だけは関心あるよ・・これも無常だ。老人そのものが無常を示しているし認知症になったら最悪の人間の無常を晒すことになるのだ。
 
仏のようになるとかはない、人間を人間たらしめているのは理性である。理性を失うことは人間ですらなくなるという恐怖がある。人格が変わるという恐怖がある。もの盗られ妄想から猜疑心が強くなり人を信じなくなるのもこれも理性が壊されるからである。嫌なことは嫌だとみんな言ったらこの世はなりたたなくなる。だから離婚ばかりふえてみんなかえって不幸になっているし子供も不幸にしているのだ。人間は嫌でも理性でなんとか仲良くしていこうとしなければみんなばらばらになってしまう。理性は賢さであり前頭葉の働きなのである。そこが壊れるから理性が壊されるから認知症になれば自分本位の感情だけのエゴの人になってしまう。認知症はわがままな駄々っ子のようになってしまうのだ。仏のようになどなりえようがないのだ。認知症の人は悪くなると病識がなくなる。自分がどこが馬鹿なのかわからなくなる。南田洋子さんも自分がどこが馬鹿なのかわからない、自分がどんな醜態を晒しているかもわからない、もし理性が働いていたらこんなみじめな自分を人前に晒したくないとなるだろう。そういう自覚がなくなるのが認知症なのだ。自分がこんなに物忘れするのはどうしてなのだろうと不安をノ-トに書いていたがその時はまだ認知症の初期であり自分が何かおかしいと自覚していた。そのあとは自分を自覚できない、自分が何かおかしいとも思わなくなった。その時病気は進んでいたのだ。こんなになぜ自分は忘れるんだろう・・・不安だ・・・という時やはり自覚しているから正常でありこのときなんらかの対応をしていれば認知症はすすまないというのは本当かもしれない、つまり認知症の症状として必ずそういう経過をたどっている。最初に物忘れがひどいことを自覚して不安になっているのだ。そこから認知症が進んできていたのである。
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