南田洋子さんは相当重症だ、体も相当弱っている
南田洋子さんは相当症状がすすんでいる。顔も変わっているし体もやっと歩いている。。トイレに行くのもやっとだ。体が悪くなれば頭も働かなくなる。体も頭も相関関係にあるから。姉も頭がぼ−とするから散歩すると脳卒中で倒れるまで外を散歩していたのだ。医者の助言で自分でやれることは自分でさせた方がいいというのは本当である。自分で洗濯(手で洗っていた)、食器洗い、掃除、庭いじりなどはしていた。それが自分の役目だと思いしていた。体は丈夫だったのでできたのである。それまでしていなかった。認知症になるのはなぜかわからないにしても自分でやれることは自分でさせた方がいい、簡単なことでも何もやれないより自信がつくし自分も役に立っているんだと張り合いもでてくる。介護も世話になる一方で精神的にも肉体的にも良くないのである。病院で世話になっている老人はトイレも食事も自分でできるんだけどポ−タブルトイレを洗ったりしてもらうので毎日十回くらい「すまねえ、すまねえ、ありがとう」と申し訳なく言うのがあわれにもなってくる。自分で何もやれないことは本人も相当な負担になってくるのだ。認知症でもそのことは同じなのだ。ただ南田洋子を見ていて体も悪いから何か自分でできなくなっているからこれは重症だなと思った。顔つきも変わっている。認知症になると顔つき変わる。だから普通一目見てわかる。でも姉の場合は顔つき一時変わったこともあったが変わらなかったから最後まで外から見てわからない人が結構いたのである。
長門裕之が明確に今の困った状態をこうこうすればいいんだよと言ってくれる人がいれば助かるというのはアルツハイマ−とか老年期の認知症の介護している人はみんな思っているのだ。自分の場合は認知症に関して何の指導も受けられなかった。むしろ認知症家族の会とかに最初に行くべきであり医者に行ったからといってほとんどそんないい指導は受けられないのである。でも認知症は共通した症状があってもみんな違っているみたいだ。「アカイヨ、アカイヨ・・・」というときトイレに行きたい合図だとかその人特有のもの言いがある。それは親密な人でないとわからないだろう。アカイ・・ということに何かこだわりがあるんだろう。認知症は一人一人見たらみんな症状は違っている。その人の生前の人生やら性格も反映する。病院で見た認知症の女性は今思うと扱い安い女性だった。そこにあまり悲壮なものがない、何か滑稽で喜劇的になっている。そんなに迷惑もかけないのだ。「看護婦さん、助けてください、ありがとう、・・・・」毎日言っているから何もわからないことはない、認知症でも扱い安い人と扱いにくい人がいるのだ。暴力ふるう人などは一番扱いにくいだろう。南田洋子さんは体が弱っていることと日常的に何か自分でできることがないし介護される一方だから重症である。
●南田洋子さんが意識障害で入院
南田洋子さんはどのくらいの意識障害なのかやはり前から重症に見えた。体が相当弱っているように見えたからだ。
アカイヨ というのはキムチかとか長門が食事のとき言っていたから赤い色した食べ物のことだったらしい、認知症の人は必ずしも辻褄のあわないことを言わない、よくよく聞いているとそういうことかと納得する、ただこれは極身近に接する人でないとわかりにくいのだ。アカイ食べ物をさしてアカイヨと言っていたのだ。
それにしても南田洋子さんには関心が相当ある。このペ-ジにアクセスがまたふえたし継続的にアクセスがある。全国的に相当な関心をもたらしたことは確かである。
南田洋子さんは尿毒症
南田洋子さんは尿毒症だとすると死期が早いかもしれない、姉も尿毒症で意識不明になり死んだ。二カ月間は全くの意識不明であり反応がなくなった。体がむくんだりしてただ呼吸しているだけだった。尿毒症は意識混濁になりやすい、認知症そのものでは死なない、認知症から他の余病で死ぬのが多い、脳梗塞になったというのもそうである。姉も脳出血になった。認知症から別な病気になりやすいのだ。不思議なのは脳梗塞になって入院が長い人もべつにみんな認知症にはならない、認知症になると誰だか親しい人でも判別できなくなる。介護では夜眠れないと辛くなる。認知症の人は眠れない人が多い、だから不安で呼びだすことが多くなる。
南田洋子さんは寝たきりになってしまうのではないか、尿毒症から意識不明になりやすい、意識不明になることは死の状態に入ってゆくことである。死ぬときすでに意識不明だから死んだと変わりないのだ。意識不明の二カ月間は死んだと同じだった。救急車で病院に入ったら普通はそのまま入院だけど在宅にこだわるのはそれだけ余裕がある。介護する人を雇えるからだ。普通はできない、それだけの重症者をみるには家に看護婦を雇うほかない、それには金がかかるから本を出したりテレビにだして見せ物にして稼ぐというのも本人にとってはいいものではないだろう。
●見せ物にするのは問題
そんな悲惨な状態を見せたくない、前のような美しい女優としてのイメ-ジをもたせたままそっと死なせたいということもある。姉は二年半で死んだから認知症になったことを知らない人が結構いた。かえってその方がいいと思った。悲惨な状態を知らない、前のままの姉しか知らない、普通はその方がいいのかもしれない、身近に世話になる人には知られてもしょうがないが別に第三者や知人には知らせる必要もない、そっとしていればわからずじまいに死んでしまいば馬鹿になって死んだんだとは思われない、何でも見せ物にして稼ぐというのは嫌である。不倫したから本を出して今度は認知症になったからまた本を出して稼ぐ、人間何でも露にしてショ-にするのは嫌である。これはショ-ではない現実なのだから、演技ではない現実なのだから、でも奇妙なのは認知症には明らかに演技の能力が必要なのだ。施設に入った人がそこが会社だと思い介護する人を部下だと思っている。その時部長さんお食事もってきましたとか演技すると上機嫌になるのだ。認知症の介護には真面目な人は向いてないかもしれない、演技する必要があるからだ。ただこの演技とは別であり何でも見せ物にして稼ぐというのは嫌である。
テレビを見た人の反応の様々・・・・
悲惨な姿を晒すべきでなかった −同情をかうためだった・・・
華やかな女優のイメ−ジがだいなしにされた。長門裕之は最後まで南田洋子さんを晒してまで利用した。テレビは視聴率稼ぎで長門は金稼ぎだった。魚心あれば水心で一致した。こういう意見もでていた。確かにあんな無惨な姿晒すべきではないと思うのも一理あるな、でも長門さんを送る南田洋子さんが笑っていたシ−ンは良かったな、あどけない笑いだった。確かに認知症は悲劇であり自分でも介護して思い出してたくないんだよ、正常だった時の姉であってほしいし遺影を見ていると元気だった頃の顔で笑っているんだよ、いつも笑っているから遺影を見ると無惨な認知症になった姿を思い出すことないんだよ、だから無惨な姿を晒さずに隠してファンだった人に幻滅を与えない方がいいというのも一理あった。同情をかうために演じるなるというのもわかる。人前に晒すべきものではない、そっと最後を看取り南田洋子の思い出は銀幕にあった元気な南田洋子であってほしいというのもわかる。認知症の介護で苦しんでいる人でもこれを見て参考になることはほとんどなかった。同情している人がかなりいたから同情をかうということでは成功したとなる。
これについてここが的を得ている
http://pub.ne.jp/bonnjinn/?entry_id=1755765
認知症ほど人間の無常を示すものはない
http://musubu.sblo.jp/article/22415335.html
認知症は前頭葉の機能が極端に低下した病気
(南田洋子さんで認知症関係のアクセスふえる)
http://musubu.sblo.jp/article/22509094.html
人間は集団でも個々人でも奢(おご)る時危険-神の罰が下る(認知症の衝撃)
http://www.musubu.jp/jijimondai39.html#risk
南田洋子さん 死亡
南田洋子さんと姉の経過がにていた。認知症の軽い症状が出てから4年くらいで死んだ。
南田洋子さんも5年くらいで死んだ。くも膜下出血になったのもにていた。姉は普通の脳出血だったから軽かった。8カ月くらい病院にいて最後は尿毒症になり死んだ。認知症そのもので死ぬひとはいない、認知症から波及した病気で死ぬ。脳出血になる人が多いのかな゛、でも脳出血になっても認知症にならない人も多い。認知症と脳出血の結びつきが不明だ。
危篤になったとき夫の長門が「その最後の形を面影を心に刻んでおきたい・・・」これは実感こもっていたな、というのは自分も同じだった。姉は太って陽気な人だった、そして不思議に最後まで顔がやせずに太っていたから顔があまり変わらなかったのだ。認知症になると一見してわかる人がいる。顔がゆがんだりして悲惨な状態の人がいる。顔が大事なものである。顔にはその人のその人らしさが最後まで残る。だからハンセンシ病は悲惨な病気だった。最後に最愛の女性の顔を心に刻んでおきたいというのは自分も経験したから長門は間違いなく南田洋子さんを愛していたことがわかる。ただ見せ物にしたのはまずかった。これだけ意外と早く死んだならほとんど外部の人には知れず死んだことになる。あの悲惨な姿を思い浮かべる人はいない、姉は極親しい人には知られたがその他の人は気づかなかった。顔の表情が変わらなかったからである。それで意外と早く死んでしまったから生前の陽気なほがらかな姉のことしか知らないままに死んだことを知った人も多い、結局その方が良かったのである。あんな悲惨な姿を知らせる必要はない、認知症は本当にどうしたって痴呆になったということであり人間としての尊厳は失われた。それはどんな優秀な人でもそうである。それが余りの衝撃なことなのである。だから極親しい人には知られても他の知らない無責任な人には知られない方が良かった。
人生の最後に悲惨であったがその姿は知られずに隠した方が良かった。どうせ大勢の人は野次馬であり面白がる人だからそんな人にそんな悲惨な姿を見せる必要はなかったのである。
晒し者笑いものにしたということは残る。何もそうしなくても別なドラマに出て金はかせげたからである。そんな姿を全国民に知らせる必要はなかったのである。
NEW!
認知症に寛容になることのむずかしさ(敵味方塚のコメントから)
http://musubu.sblo.jp/article/33191304.html
認知症はサッチャ−首相でもレ−ガン大統領でも他にも相当優秀な人でもなっている。どうしてなるのか原因がわからない、頭を常日頃働かしている人もなっている。俳優は若い人と交わりセリフなど覚えることも頭使うからならないといってもなっている人もいる。結局わからないのだが治療方法があるのかとなるとこれもわからない、ただ親密に長年暮らしていた人とは以前として通じるものがあるし頼ってくる。だから親密な人が余裕もって介護すれば改善することもある。自分の場合は体はそんなに悪くなっ方からもの盗られ妄想とかは完全に消えたからあとで扱い安くなったのである。顔も穏やかになって楽になった。ということは介護の仕方で認知症も多少は改善するのだ。人によって違うが体が悪いと認知症も悪くなる。南田洋子さんが体が相当弱っているから改善するように思えない、だんだん動けなくなるのではないかと心配である。でも介護する人を雇っていられるし昼間はそばにいる人がいるのだから恵まれている。自分は家庭環境に恵まれた介護ではないし一人だったから十分な余裕ある介護できなかった。そういうふうに介護環境に恵まれていたら認知症も多少は改善しうる。ただ体が弱っているとなると頭も改善することはむずかしいかもしれない、体が根本的に弱っていることは頭も改善できないと思えるからだ。
テレビを見た人の反応の様々・・・・
悲惨な姿を晒すべきでなかった −同情をかうためだった・・・
華やかな女優のイメ−ジがだいなしにされた。長門裕之は最後まで南田洋子さんを晒してまで利用した。テレビは視聴率稼ぎで長門は金稼ぎだった。魚心あれば水心で一致した。こういう意見もでていた。確かにあんな無惨な姿晒すべきではないと思うのも一理あるな、でも長門さんを送る南田洋子さんが笑っていたシ−ンは良かったな、あどけない笑いだった。確かに認知症は悲劇であり自分でも介護して思い出してたくないんだよ、正常だった時の姉であってほしいし遺影を見ていると元気だった頃の顔で笑っているんだよ、いつも笑っているから遺影を見ると無惨な認知症になった姿を思い出すことないんだよ、だから無惨な姿を晒さずに隠してファンだった人に幻滅を与えない方がいいというのも一理あった。同情をかうために演じるなるというのもわかる。人前に晒すべきものではない、そっと最後を看取り南田洋子の思い出は銀幕にあった元気な南田洋子であってほしいというのもわかる。認知症の介護で苦しんでいる人でもこれを見て参考になることはほとんどなかった。同情している人がかなりいたから同情をかうということでは成功したとなる。
これについてここが的を得ている
http://pub.ne.jp/bonnjinn/?entry_id=1755765
認知症ほど人間の無常を示すものはない
http://musubu.sblo.jp/article/22415335.html
認知症は前頭葉の機能が極端に低下した病気
(南田洋子さんで認知症関係のアクセスふえる)
http://musubu.sblo.jp/article/22509094.html