2008年11月02日

NHK−トビウオ海道を往く〜赤道直下から日本5000キロ〜を見て(裸は自然だった)

 
 裸の楽園の島?

はるかな南の島、そこに楽園がありや

若々しい体に乳房がゆれて風がそよぐ

椰子の葉影のゆれて日がな休む島人

悪徳はまだ外から露骨に入って来ない

商人はめったにここに来ないのだろう

一網打尽に魚を取りつくす機械もない

長老は延々と神話と伝説を今も語っている

その言い伝えを守ることが島の法律である

貧しいが熱帯の島は裸でも過ごせる

鮮やかな蝶が長々と大きな原色の花の蜜を吸う

そしてまた紋様の異なる蝶が舞ってくる

極楽鳥がさながら憂いを知らず恋のダンスをする

日々の食はここに欠けることはないのだろう

タロイモは容易に育ち人の手を患わせない

人はそれほど労苦して働く必要がない

ここでは機械に使われたり公害もない

女性の裸を特別な好奇の目で見る男もない

文明人のように性の欲望が過度に作られることはない

それは自然なことであり肌を隠す必要はない

かえって暑苦しく不自然なことになる

ここは本当に楽園なのだろうか?

この世にまだ楽園があるのだろうか

おそらくただ外から見ていると楽園があり

その小さな島に住めば不満があり争いもある

なぜならそんな小さな島ですべてが満ち足りことがない

人は外からのものを要求するから

 

NHKの「飛び魚街道を往く」という番組ニュ−ギニアの島で裸で暮らす人を写していた。そこには若い女性もいた。それがういういしく新鮮な裸だった。極自然な裸だった。文明人はあまりに性にたいして技巧をこらしすぎた。性欲の欲望は過剰に作られてしまったのだ。文明人はあらゆるものに欲望を拡大化するのだ。資本主義そのものが欲望を作るのである。バブルになるのも欲望の過剰化の結果として起こる。欲望が自然の摂理から離れて過剰化する。裸は別に南国では自然なのである。暑いのだから自然とそうなるし裸でいると涼しいからそうなる。女性が裸でも自然であり裸も見慣れていれば特別なのもでなくなる。かえって隠すこと異常に性欲を刺激する。そして女性は衣装をまとい男をまどわす・・・これこそ欲望を過度に刺激することなのだ。ゴ−ギャンの絵にはそうした文明人の性を刺激するものがない、極めて健康的な裸の女性が描かれている。ところがアフリカの原住民に飛び込んだ女性の裸は別物だった。それは性を刺激する白い肌のものとなっている。これは性を売る映像化だったから余計にそうだった。不思議なの同じ裸でも文明人の裸と原住民の裸は違っている。文明人の裸は衣服をまといその衣服から裸になること自体、性の欲望をそそるものとなる。女性は技巧的に常に性を欲望をそそるものとして作られてしまっているのが文明人なのである。
 
文明人が裸になる時、それはすでに不自然であり性の欲望をそそるものとなる。一方原住民が裸になっているのは性をそそるものとしてあるときはある。それは自然の動物にも性の営みはあるのだかいつもあるわけではない、一時期、発情期になると同じである。だからいつも性欲の対象として見るわけではない、日常的には裸でいても自然であり見慣れているから特別なものではないのだ。つまり文明人はすでに衣服をまとう歴史が長いから衣服をぬぐという行為自体が性欲をそそるものとなる。もともと裸だったらそういうことが常にあるわけではない、文明人の裸と原住民の裸は同じ裸でもすでに違ったものである。日本も南方系の文化として腰巻きとか高床式の家があったから南方系の文化も色濃く残されているし日本でも海女は裸であったり日本でもあったことなのである。ともかく純粋に裸になれなくなっているのが文明人なのである。ゴ−ギャンの絵には文明人の裸を感じないことでもわかる。直観的に描いた結果としてそうなったのである。そこには原生人間としての裸があった。上野霄里氏もそうした原生人間を自らを裸にし示したのである。

 
西アフリカのボンゴ族の男たちは裸の女性には興味をもちません。
彼らは、服を着た女性の姿に性的刺激を受けるのです。だからボンゴ族の女性は
男性を刺激しないように普段は裸で生活。彼女達は性的な儀式や踊りのような
特別の場合だけ、男性を性的に興奮させるため、服を着ます。
 
これが本当だとすると文明人と逆になっている。かえって裸は性欲を刺激しないのだ。服を着たとき性欲を刺激する。服を脱がせたいとか妄想が起きてくるのである。文明人の方がきれいな衣服をまとっても実際は
不自然になっている。文明人で当たり前なことが倒錯した異常なことになっている。裸こそが健康的であり
普通であり衣服をまとうことは不自然なことだから欲望を刺激することになるという不思議がある。
 

ただ本当に南の島が楽園なのかというとこれは外から見ているからそう見えるのであり現実の島は全く違っている場合がある。沖縄でそうだった。小さな島はまるで監獄だったのである。ほとんど自由はない、常に監視されているしすべてが知り尽くされる。何も隠すことはできない、自由がない閉鎖された世界である。人間はどこであれ旅人として訪ねればそこは楽園になるがそこに住んでみて楽園になる所はない、それがそうしたものがテレビだけ見ただけでは見えないからである。
この番組は再放送だったからもう一回やるのか、録画しないのが失敗だった。
トビウオ海道を往く〜赤道直下から日本5000キロ〜

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