晩年に晩菊とあわれ草の花
晩菊と草の花あわれ同じ道
無花果の葉の一枚の枯れにしをまた一枚の枯れしあわれも
昨日は初時雨だった。時雨は俳句にしにくい、村時雨などとあれば環境にあっていたが今はやはり騒々しいから時雨があわないのだ。車にのっていれば時雨は感じない、車は自然を遮断するのである。風流を感じるにはやはり最低でも自転車くらいで移動しないと風流を風を感じないのである。仕事では車を利用するのはやむをえないが風流を風を感じるには歩きか自転車である。歩くことが一番風流を感じることなのだがこれはもはやできなくなっているのだ。晩菊のキ-ワ-ドで・・紫の色深め・・・とありやはり同じ発想していた人がいた。インタ−ネットは同じ季語など同類のもの集めるのに比較するのに向いているのだ。
隣の無花果の葉が一枚枯れていたのを見ていたが次にまた一枚枯れたなと見ていたが今日確認できないのでどうしたのか散ったのかとも思ったがデジカメで撮ったら確かに二枚写っていた。肉眼では一枚は見えたのだが夕方になり暗くなったら見えなかったのだ。デジカメは人間の見えない部分を補っているのだ。細部を見るのはデジカメの方が優れているのだ。
まだ死んで47日はたっていない、まあ、人間も85以上生きればそれ以上あまり悔いはないだろう。むしろ85以上になると認知症になるリスクが高くなるのだからその前に死んだ方が幸せだともなる。認知症になると悲惨だし最後悪ければすべて悪しともなりるから困るのだ。やはり今は晩年が長すぎることが様々な問題を生んでいるのだ。
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