2008年10月08日

愛するものを失う悲しみの大きさ (人間はモノで代替できない)


愛するものを失う悲しみの大きさ
(人間はモノで代替できない)

 
しろがねもこがねも玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも 山上憶良
 

愛するものを失った悲しみはあまりにも大きい
永遠にもはや会うことができないから
モノならばモノを満たせばたりる
腹が減っても食べれば腹は満たせる
死別の悲しみは充たされることがない
愛する人がもはや永遠に帰ってこないから
モノがなくなってもまたモノで充たせば足りる
人間を失ったら充たすことはもはやできない
その人のみもつ人格と個性は充たせない
永遠の欠乏のみがそこに残る
そして人間にとって何が貴重だったのか問われる
モノは金で買える、モノは充たすことができる
失った人間は充たすことはできない
その人間の何が貴重だったのか
それは人間そのものだった
モノや機械で代替できないもの
人間全体を構成するもの
子供ならその愛らしい姿全体であり
それは決してモノで代替できない
人間は今やあくことなくモノを求めている
モノを得るために金を得るためにあくせくする
しかし何が一番大事なものなのか?
モノではない、モノは代替ができる
愛する人を失う悲しみはあまりに大きすぎる
それは代替できないもの
ダイヤモンドより黄金より貴重なもの
それは愛する人を失うこと
死んだ人は永遠に帰って来ない
本当に貴重なものは失ってはじめてわかる
いかにモノに充たされていても人は幸福になれない
愛する人とともにいることこそが最大の幸福であり
それはモノで代替できないから
モノだけで金だけで充たされないものがある
それこそが貴重なものであり金に換算することもできない
人は失ってはじめてその貴重さを知る
モノを充たしても幸福になれない
車があり便利な道具に充たされても幸福になれない
最も大事なものは人間そのものである

 
よく子供を失った悲しみをそれも80になっても母親が言うことがわからなかった。こうした喪失感は消えることなく残っているのだ。それがもはや代替できないものだからそうなる。モノだったらしろがねでもこがねでも現実にあり買うこともできる、しかし一旦失った人は買うことはできない、永遠に会うこともできない、そこにその空白を埋める悲しみを充たすものがないのである。だから死別の悲しみはあまりにも大きくなる。そして現代文明は異常なほどモノを充たすためにあくせくして過労死するまで働きつづけている。モノにこれほど執着してモノののために働いた時代はないだろう。だからすべてがモノで充たされて隙間もない、人間が死ぬと残したモノはあまり意味がなくなる。高価な着物を一杯残してもそれを分ける人もいない、つまり残したモノは投げる他なくなっている。では何が貴重だったのかというとその人間全体を構成していた個性であり人格など金に換算できないものだった。つまり人間そのものでありその人間全体を構成しているものは機械やモノで代替できないから貴重だった。しかし今そうした人間そのものに価値をおくことより現実生活をモノ中心の生活である。これほどモノを求めて生きた時代はない、便利なモノを追求した時代はない、だからあらゆるモノにあふれそのモノを求めて過労死するまで働かされる。モノの洪水に翻弄されて生きている。


しかし人間にとってもっとも貴重なものはモノではない、人間そのものである。愛するものを失うことがあまりにも大きな悲しみとなっているのは代替できないからである。つまり便利さを追求するものによる文明だけでは人間の根本問題は解決できない、死別の悲しみも癒されることがない、そこに宗教が信仰が必要になってくるのだ。現代の宗教もほとんど物欲カルト宗教になっているから宗教団体に入ったら文明の物欲追求の一旦をになうだけだからここもモノの追求なのである。つまり物質文明の騒擾に巻き込まれない価値観の追求が必要なのである。それは愛する人を失うことがモノで埋められない、代替できないということで一般の人にもむずかしく考えなくても納得できるものなのだ。

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