数がわからない 認知障害
認知症の対処方法
なりやすい 性格 認知症
行方不明 認知症
意味 介護 探求
原因 超高齢化社会
盗られる 妄想 老人
福祉関係の時事問題
老人駆除
家族関係 認知症
●銀行に金があることが理解できないのが最大の不思議
今年一年は認知症にはじまり認知症に明け暮れた。一年間である程度この病気について考え理解できたものもあるがわからないことが多いし謎が多すぎる。一番の謎は「数がわからない 認知障害」とか銀行のことがわからなくなることである。銀行に金があることをいくら説明しても金がないと言って金あるのかと毎日聞いてくる。金が数字でいくらあるといってもその数字が金であることが理解できないのである。現物がないと札束がないと理解できない、でも金をもたせるとなくしてしまうからもたせられないのだ。ここが認知症の一番の不思議であり理解できない面だった。なぜならは他のことは世間のことでも理解している。全部ではないにしろそれなりに理解しているしだから外部の人にその異常性がわからないことがある。銀行に金があるということ金を下ろせないということを知ったら他の人も驚くだろう。そんなことわからないのかとあきれてしまうに違いない、子供でもでもわかるじゃないかとなるからだ。抽象化思考ができない、だから漢字が読めない、書けない、数字の意味がわからなくなるのだ。ただ世間話はできるから不思議だ。特に電話では相手の様子など見えないのでほとんどわからない、質問もされてとまどったりすることもないし長い対話でないからわからないのだ。ボロがでないのである。
●人間は働くだけでは連帯感が生まれない
私のプログにきているキ-ワ-ドは毎日こうしたものがきている。それは認知症にかかわる人が日々悩んでいることであり解決したいからそうなる。でもいい解決方法があるのか?特効薬があるのか?そんなものがないのが認知症である。「家族関係 認知症」のキ-ワ-ドで来た人もそうだが家族関係も何か認知症の発症と深く関係しているかもしれない、自分の家族はあまりにも特殊だから参考にはならないかもしれない、言えることは家族全員で一度も 旅行とか遊びに行ったことがないのだ。一緒に協力してし働いていても何十年と一緒に働き生活していても人間は連帯感が生まれるとは限らないことにもなる。
人間は多様な存在であり働くということだけに生きているわけではない、遊ぶというのも人間を形成する大きな要素であり子供時代が遊びであるとき遊び仲間が連帯を生んでいる。大人になると遊びは無駄なものとなりただ働くこと金儲けだけが生きる目的となる。しかしそこに連帯感が生まれとは限らないのだ。なぜ何十年も一緒に暮らした夫婦が熟年離婚とかなるのも趣味が合わないとか性格が合わないとかがありいくら助け合い協働して暮らしても連帯感が生まれない、人は働くだけでは連帯感が生まれない、遊びの要素が欠けると退職したり仕事から引退すると生きがいなくなり頭の働きが鈍化して認知症になるとかいうのもそのためである。仕事一筋の人も認知症になるのだ。仕事一筋の人が仕事をやめたら生きがいがなくなるからだ。そういう人は仕事を遊びとしてやっていない、大工でも家建てるだけではない、賃金収入としての大工をやめても遊ぶ仕事はつづけることができる。子供に工作を教えたりすることである。でもそういうことは無駄としてきたから仕事がなくなるのだ。回りの人も仕事が収入になるとき仕事として認めるが金にならない遊びは無駄とされるから一旦仕事をやめると会社を退職すると無用の人になり認知症になる度合いが強くなるのかもしれないのだ。では遊ばない人が認知症になりやすいかというそうでもない、要するに遊ばなくても事務をして計算しているだけでも頭が働くから仕事をつづけることがボケない予防になっているのだ。
●意味 介護 探求
これも一年間介護とまでもいかない世話をしてみてわかったことは介護は一面不毛な世界となりやすい、介護とは無駄な犠牲のような重いものを感じる。若い人にとっては特にそうである。いろいろ若いときやりたいこと海外旅行でも学問でもスポ−ツでも介護のために犠牲にされたら自分の人生を奪われとして拒否するだろう。だから若い人は介護には向かないのではないか?ただ体力が必要だから若い人は介護に必要なのである。介護には意味は確実にある。弱った人を障害者を助けることは人生にとって意味あることなのだ。介護とは具体的な愛の実践なのである。介護となると具体的にオムツをとりかえるとか嫌なことをやっている人がいる。具体的な行動としてそういう嫌なことを要求される。自分はまだそういうことをしていないから別に今のところは世話がそんなに嫌だとはなっていない、私の介護は世話は家族関係としては特別自由にやりたいことをやらせてくれたしいろいろ背景があって家族愛でやっている。今や自分は尽くされるだけだったが尽くす方にされてしまった。でもそれはすべて悪いことではない、それは皮肉だが生きがいにもなる。弱った人、障害者を助けることは意味あることなのだ。それは愛の実践なのである。ボケた人を介護する人、障害者や家族で不良の人などをもつ人世話する人はボケないというのも奇妙だが一面本当なのだ。そういう人をかかえると苦しいのだがなんとかしなければならないと懸命になるから頭も体も働かせるからボケないとなる。つまり介護も生きがいになりうるからだ。
そもそも人が生きるのは活かされ活かすためであり自分のエゴだけに生きることではない、活かし活かされることが介護とかにでてくる。認知症の人でもよくしてやれば介護してやればありがたいと思って感謝する心をもっているしそういうふうに親身になる人は最後まで重症になってもわかるというのは感情部分は正常であり愛がわかるからだ。また逆に軽蔑されたりすると怒る、認知症のやっかいなのはプライドはもちつづける、その人の生前もっている立場のプライドはもちつつげる。家族関係なら姑なら姑としての立場はもちつづけるからそのプライドは傷つけられると怒り暴力となることがあるのだ。自分で忘れてなくしたというとき自分で忘れたなくしたということを認めたくなくてそう言うふしもあるのだ。他者のせいにすればプライドが傷つかないからだ。
まあ、認知症の対処方法は各人各様であり家族関係でも様々でありパタ−ン化できないのだ
認知療法は患者自身の認識レベルを、患者自身の自律的な努力によって向上させる療法である。
家庭で何もさせないのではなくやれることはやらせ何もできないものとしてなんでも代わりにやってあげるのではなく自律的にその人が行動していくようにしたら多少は持ち直した、回復した。何もできないから代わりになんでもしてやるのはよくない、その人の力とエネルギ−を奪ってしまうからなのだ。
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