2006年12月08日

共同体で消化されない事件の連続(目立たぬ石)


石一つ重しのごとく室(へや)にあり飾り気なきに冬の日暮れぬ

この石を買って室に置いてから一カ月くらいたっている。そのうちに石の存在感がでてくる。存在感がでてくるには時間が必要なのだ。なぜ現代の人間や物に存在感がないのか?それは時間に耐える重みがないからだ。その時々に物でも人でも情報でも消費されるだけであり時間のなかで重みをもつものがないのだ。人でも物でも時間のなかで存在感をもつのである。だから人でも自然でもその存在感が意味がわかるのには時間がかかる。現代の最大の欠陥は長い時間のなかで育成するものが作れないことなのだ。すべてが場当たり的に消費される。それは事件ですらそうなのだ。毎日事件が報道されてもその事件が共同体のなかで意識化され何かしら教訓とかとなり消化されていない、昔だったら伝説とかとなり共同体のなかで重要なものとして言い伝えられたのである。それは事件の一つの消化方法であり現代の事件の報道よりは事件に意味を持たせたのだ。その事件は長い時間のなかで語られその意味を共同体のなかで途切れずに追求されたともいえる。

私の本サイトの時事問題でも例えばキ-ワ-ドを毎日探っているが台湾人の女性が日本人に乱暴されて殺されたがその渡辺とか言う人を未だに探っている人がいる。地元ではその人のことを事件から時間がたっても考えているのだ。事件はtake place であり場所と深く関係している。事件の起きた場所が因縁となるのだ。だからそこに供養の地蔵でも建てればいいとなる。それも事件の消化方法であり供養の方法なのである。現代の事件の報道は楽しみとか刺激のために娯楽になってしまった。真剣にその事件を受け止める共同体の機能をなくしてしまった。マスコミはただ刺激的なものを娯楽としてニュ−スを事件を報道している。そういう点でも報道は変わるべきである。マスコミからインタ−ネットへと報道が変わることは別な視点から時事問題や報道を探求することになるからだ。

石には飾り気がない、石は素朴でありまた目立たないが石のようなものが実は家庭でも社会でも支えている、表に目立つものはそうではない、そこが社会をおかしくしている。みんな目立つものになりたがる、ハデな世界に憧れる、それはかえって一生をふりかえるとき存在感のないものと逆になってしまうだろう。だからマスコミやテレビばかりみるとそうなるから今や極力テレビ、新聞やマスコミからは遠ざかるべきである。しかしインタ−ネットの個々のプログはかえってその人なりの独自の発言がある。テレビでは聞けない発言がある発見がある。多様な物の見方がある。出版された本にもないものがインタ−ネットでは出せるのだ。本の世界もかなり制約されたものなのだ。インタ−ネットの問題はあまりの分散化だから編集とか集約する必要がある。集合知というのはわかるがこれを編集するとき一つの別なのとして光を放つことになる。編集は明らかに創造することなのだ。だから編集者は創造的なことをしていたのである。ただ編集は本来創造する本人、クリエタ−、作家がするものである。それがインタ−ネットではやりやすいのだ。コピ−してモザイクのように構成するとそれなりの別な創造作品となっているからだ。

残菊と石
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=1893233

posted by 老鶯 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/2065355
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック