2008年09月21日

秋の鴨

 
鴨三羽夕餉の時や初秋かな

鴨三羽むつみあう秋の里の川

病葉に終わる命や墓の側

鈴虫のすずろに鳴いてこの夕べ川べり歩く人もまれなり
 

   百(もも)伝ふ、磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子 (3-416)
 
鴨三羽・・・・これが何でもないのだが何か家族を仲間象徴している。またはこの鴨は親しくしていた友のことだったとみれる。今日限りで別れてゆく、死んでゆくとき親しくした友として鴨を見ていた。鴨は何かそういうふうに見えるのだ。俳句でも短歌でも詩は平凡な中に深いものを見いだすことなのだ。ありふれたものがいつも見ているものが特別なものに見えてくる。それは末期の目で見たとき、すべてがこの世界が今までと違ったものとして見える。それは人間そのものにも言える。姉の死は近い、今度は小便も出ないのだからどうにもならない、人が死んでゆくときもその時、人の命はかえがたいものとなる。すでに二カ月反応もないのだから意識なく眠りつづけているのだから死んだようであった。でもまだ死んだとは言えなかった。そしていろいろあってもかつて家族として長い間一緒に過ごした平和な日々を思い出すことになる。家族はの営みは実にただ食事をしたりと平凡な繰り返しである。でもそれが一旦失われるとその平凡な日々がかけがえのない日々だったことがわかる。一緒に食事することもなくなるからだ。いづれにしろ二カ月も眠りつづける、反応がない、沈黙化してしまった。それも悲しいが認知症だったら馬鹿だなとなるがそういうふうには見られることはもはやない、人間はしゃべらないと賢いと思われる。深い沈黙はまた死を意味していたのだ。なぜなら死者は全然しゃべることがなくなるからだ。何を言おうと死者には反応がない、答えることがないからだ。
 
雪の暮鴫(シギ)はもどって居るような 蕪村
 

鴨がシギとなっている。この鴨は蕪村の一人娘を思って作ったらしいとあるからやはり身近な家族を思う俳句だった。これが何か簡単なものでも深いものがあったのは死んだはずの人がもどってきている・・・そういうふうに読んだからだ。人間は家族は長く一緒にいると空気のようになってしまう、夫婦でもそうだろう。だからいなくなってもそこにもどっているような感覚にとらわれるのだ。平凡なのだけどそこに深いものがある。
ここでまた鴨が冬の季語だったことを忘れていた。雁は秋なのだが鴨は冬になっていたのである。これもまちがいやすいと前に書いた。雁と鴨は違ったものである。鴨はよりみじかでありサイズが小さいから親しみを感じる鳥である。雁は飛んでいるとい列をなして飛んでいる時の雁が秋らしいとなる。季語は結構俳句を長くやっていてもわかりにくいのだ。季語を知ることが俳句上達の極意なのである。

 

雁と鴨の混同
http://www.musubu.sblo.jp/article/10454988.html

 
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