2008年09月15日

萩市の思い出(秋の短歌十首)

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萩の思い出(秋の十首)


秋の日や白壁の道萩の町歩みしあれや昔偲びつ

遠き日や我が旅せしは萩の町竹にそよぎし秋風すがし

萩の町白壁の内家古りぬ秋の日静か志操育む

街中に水の流れの清しかな秋の日静か旅人歩む

萩の城芒に淋し我がたずね天守もなしも残る石垣

松陰の風雲の旅はるかなり帰らざるかな秋の萩行く

萩の町壁の崩れて誰か棲む秋の日さしてあわれ深まる

萩の町曲がりし辻や白壁の塀のつづきや秋の日暮れぬ

萩の町思いば遠しみちのくやそのへだたりに秋深まりぬ

みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな



萩というと今になるとここもずいぶん遠い、地理的にここも不思議な一角だった。今や思い出す旅なのだが萩というと実際は京都からも遠い、この遠さ知って歴史もわかる。歴史は地理なのだ。会津は京都にあまりに遠すぎたのである。その距離感は今では推し量ることはできない、今でも思い出すと遠い町だったとなるからだ。そもそも萩の町からなぜ明治維新の志士が排出したかなどみちのくから考えるとわかりにくいのは地理的感覚がわからないからだ。人間の生活は江戸時代になれば地理的に分断されていた。京都や萩となると地の果てのように遠い感覚になる。そういうところで何が起こっているのか把握しにくいのだ。江戸とみちのく、京都とみちのく、そして萩とみちのくが結びつけて考えることは容易ではない、今も確かに一日で行けるとしてもやはりその間を想像すれば遠いのである。旅が思い出の中に想像の中にイメ−ジとして浮かび上がらせるとなると何かまた違ったものとなる。萩は日本海に面していることももの寂びた感覚になる。瀬戸内海なら違っている。ただ瀬戸内海に近いから距離的には問題なく瀬戸内海から九州の薩摩と結びつきやすかった。そうした距離感がみちのくからは具体的にイメ−ジできないのである。萩藩の歴史も戦国時代から考察しないとまた深部から理解できない、歴史が理解しにくいのは地理がありそこに刻まれた生活の時間がありそうした総合的なものとしてイメ−ジできないからである。萩の町が印象に残ったのは明治維新の志士が排出したとかではなかった。その街並みが江戸時代のままに残っていたことだった。そこが日本人の原風景のように心休まる空間だったのである。日本人の心はそうした日本人の原風景として形成された文化的なもののなかに育まれた。それは全体であり部分ではない、全体のなかから人物も育まれた。そういうものが萩には残っている。日本人の情緒が育まれたのはまさにあのうよなこじんまりした城下町だったのだ。

 

幽閉中の詩
「世のことは絶えてをぐらき山里にこころつくしの夜半のともし火」清水清太郎

この歌のようにかえって勇ましいのではないものが心に残る。維新というと何か大仰なものを想像するが人間の根底を形成するものは派手なものではなくこうした静かなものでありそれが不変的なものとして残るのである。ともかくみちのくとのへだたりが京都や萩を思い深いものとすることがある。そこはもう二度と行けない町かもしれないとしたら特にそうなるのである。人間はそんなに旅はできない、いづれはただ思い出の中に旅はめぐり終わってしまう。だから旅は思い出せる旅をしみじはとした旅をしておけとなる。ゆっくりと町を巡りふみしめる旅をしておけとなる。京都とか萩とかはみちのくと遠いへだたりのなかにある。これは別に電話で毎日話せるから遠い一度きりしか会えないとかではない、やはり距離はある、その土地を実際に踏むことは今でも遠いしなかなかできないのである。


みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな

まだ秋深まるではないが暑いから秋とも思わなかったが実際は秋は刻々深まっていたのだ。

塀の街−萩の不思議
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm 

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