人類の終末が何故言われるのか
【聖書は人類のために書かれたもの―一民族のためではない】
終末時計の時刻が今年さらに進んだ理由について「核兵器、気候変動、破壊的テクノロジーのリスクが全て増大している」と語った。
なぜ終末が言われるのか、それはグローバル化して常に世界のことが報道される
それで日本より外国に注目される、日々外国のニュースが入ってくる
そうなると不安が百倍にも増大する、江戸時代に生きていた人ならせいぜい狭い村のことくらいしか知らず生きていた、現代は否応なく世界のことを意識する
それは別に悪いことではない、その結果として今や人間は人類のことを意識する
それぞれの国家や民族ではなく人類を意識する
核兵器、気候変動、破壊的テクノロジーのリスクが全て増大している
気候変動で人類は地球に住めなくなるとか核戦争で滅びるとか意識する
終末がきて人類は滅亡するとなる。そういう感覚は百年前とか千年前とか意識できない
狭い世界で生きていれば意識できない、でも聖書になるとその人類を意識していたのである。たしかに神はへブル人を選んで導いた。でも一民族の神ではなく人類の運命を決める神であった。だからノワの箱舟は人だけではない、動物も滅亡から救うために乗せられた。人間の罪が動物まで影響したのである。人間の罪のために神は動物まで滅ぼそうとしたのである。そこに人間の罪深さがあった。
人類が滅亡するという時、神が人間を滅ぼすともなる。そこに明確な神の意志があり滅ぼす、その力が神にはある。ただ核兵器、気候変動なども人類が滅びる原因になる
ともかく人類と意識するのはグローバル化の結果である。それは別に知識人だけではない庶民でも意識する。江戸時代なら村民としての意識しかないし日本国民意識もなかった。終末観は人類を意識して起きる。
聖書は一民族のことではなく人類の聖書でありそれだけの大きな視野を持って書かれたのである。そして人類の未来を予言したのである。
人類は滅びるのではなく神により滅ぼされるのである。だから必ずしも気候変動とか自然環境の変化で滅びるとはならない、それは防ぐ方法がある、でも神が滅ぼすとしたら防ぐ方法がないのである。そう考える人はない、そもそも神などないと見ているからである。でも聖書は神の業が現実に現れて人間を導いた記録である
それは一民族ではない、人類を導く書である。
第一ノワの箱舟などありえるのか、荒唐無稽なものに思える。そんなことイメージすらできない、ただそれも人類を救う生き残させるために神が命令してノワに作らせたのである。その時すでに人類が意識されていた。一民族が生き残るのではない人類が生き残るためにノアが選ばれ箱舟を作ったのである。まずその頃多様な民族が存在していた。それらを人類と意識できなかった。そもそも人類と意識されたのはここ百年くらいである。それまでは個々の国家があり民族がありそれ以外のことは視野に入らない。
今終末が言われるときそれは一民族国家の終末ではない、人類の滅亡だとなる。一民族一国家が滅亡しても人類が生き残れば人間の歴史は継続される。アメリカが滅びても今でも移民が大量に流入してくるからアメリカから人間がいなくなることはない。それは日本でも同じである。少子高齢化で日本人がいなくなっても移民が入ってくれば日本から人間がいなくなることはない、ただ人類が滅びたらどこの国でも維持できない
ともかく人間の歴史は多様な民族抗争の歴史であった。でも今は人類を意識する
民族の存亡ではなく人類の存亡が問題になったのである
それで核兵器は一つの国家滅ぼすだけではない、人類を滅ぼすから問題となった。
人類の存亡のために核兵器を廃止しろとなる。
. “終わり”は実は“転換点”の比喩でもある
終末という言葉は、破滅だけでなく「大きな変化の前触れ」を示すこともある
価値観の転換、社会構造の再編、技術と人間の関係の再定義
つまり「終わり」ではなく「別の始まり」を語っている場合も多い
これも言える。何か社会が荒廃して行きずまった時終末だとか末世だとなる。それは今までも言われたのである。ただそれは一国家で言われた。人類の終末を言われるのはグローバル化したためである。国家民族意識から人類意識を持つようになったためである
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