人間の歴史は個々人でも国家でも失敗の記録
【失敗は歴史の教訓となる】
ジャーナリズム」の定義と目的
ジャーナリズムを一言で説明すると「社会で起こる出来事を取材し、事実を伝える活動や、その成果物」を指します。
私たちがテレビや新聞、雑誌、インターネット上の記事などで日々接している情報源は、ほとんどがジャーナリズムの産物といえます!
その役割は、単にニュースを伝えるだけでなく、社会の不正を暴いたり、市民の疑問や問題意識を掘り下げたりすることにより、民主主義を支える大切な柱になることです。
ジャーナリズムの根本には「真実を追究する」という強い使命があり、正確かつ公正な情報を提供することで、社会に貢献しようとする姿勢があります。
人間の一生も失敗の記録になるが大きく国家であれ世界史であれ失敗の記録である
失敗が後の教訓となる、諺がことわざがなぜ今でも活きているのか、時代がこれほど変わっても活きている。それは人間は同じように失敗を繰り返しているからである
人間は本質的には変わらないからである。それでみんな老人になり失敗を語り後悔する
だから人間が歴史から学ぶという時失敗から学ぶとなる、なぜ失敗したのかを知ることが歴史を学ぶことになる。意外と人間は成功したことから学ばないのである
原発事故でも大きな失敗であった。ではなぜ失敗したのか?それを追求することが後世のためになる。でもその真実が記録に残されず語られないと後世の人が誤解する甚大な事故でも10年20年と過ぎるとあいまいとなり真実がわからなくなる
そして戦争で300百万人死んでもそれが美化される。西欧列強のアジアの植民地化に対抗するための植民地から解放するための戦争だったとかなる。
でもそんな思いで戦い死んだのかとなるとそうではなかった。それは後から美化されたのである。
原発事故でも同じである。もし50年とか百年過ぎたらその事故の真相もわからなくなる。その時事故にかかわった人達がどんな思いでいたのかもわからなくなる
だから事故で補償金をもらってかえって喜んでいた人がいたとなればそれは何なのだとなる、理解できなくなる。第一そんなこと公にされない、マスコミでも常に被害者として見てその被害を語る。事故で喜んでいたとか書かない、でも地元に住んでいればそれは作り話でもない、現実なのである。でもそれが50年でも過ぎればその真実は不明になる。事故の被害者の惨状のみが語られる、記録される。被害がいかにひどかったか、被害者としてのみ語られる。だから事故でも補償金もらって喜んでいたとかありえないとなる。要するにこうして過去のことは不明になりその解釈も誤ったものになる
また事実を真相が語られ記録されないことがある
何か語るのにも記録するのにも権力がないとできない、マスコミだけの語る物を鵜呑みにしていたら誤った解釈になる。でも新聞でも記録としては後世に残る
私がなぜ原発避難区域の被害者の真実をあえて不評なのに語るのか?それは真実だからである。ただ補償金でも原町区のようにもらっていたら書かないし批判しない
批判できない、あなたも十分に補償金をもらったではないかとなるからである
逆に確かに補償金が少なかったから敢えて原発避難区域の人達であれ責められても書いているとなる。すると後世の人が読んだらそういう事情があったのかとなり理解が深まる。でもマスコミや官報だけの情報を見ていたらそうはならない、第一そのことは語られないし記録されないのである。すると後世の人達に誤った情報を伝え誤解させる
すると歴史でも誤った解釈をする、300百人戦争でも死んでも美化される
戦争でもいいものだったとされる。そして戦争に加担した人達の責任は問われなくなる
いづれにしろ原発事故の失敗は教訓を残した。その真実を知り後世に伝えるべきだとなる。それが私の使命であり書いているとなる。
避難区域の拡大(30kmゾーン)
4月27日:プリピャチ市(約5万人)を避難。
その後、30km圏内の村々から約11万5千人が1986年中に避難。
1989年以降、汚染が高い地域が再評価され、最終的に約35万人が移住を余儀なくされた
ここはチェルノブリの事故から学んでいた。30キロ圏内が避難したからである
ただ十分には学んでいなかった、なぜなら事故になったらどうなるのかを想定しなかった、それで事故が起きないという安全神話が成立したのである
だから事故は起きないのだから避難訓練もしなかった。それで一番放射性物質に汚染された山の方の津島に避難したのである。今でも津島は森だと30マイクロシーベルトとかか信じられない馬鹿高く森には入れないのである
その時東電の社員がいて海の方に避難すべきだとそれに従った人は汚染されなかった
そうなったのは余りにも安全神話が強固なものとして信じていたことにある
それは戦争なら日本は神の国だから絶対に勝つというのと同じだった
つまり科学者でも神がかりになっていたのである
ともかく今になると原発中止ではなく増設しろというときその安全対策が問題になる。
それがルーズであり危機感がなくまた甚大な事故が起きるかもしれない。
それは歴史の失敗の教訓からの失敗から学ばないからだとなる。
戦争でもそうである。過去の戦争の失敗から学ばなければ同じ失敗を繰りかえす
カルマの意味は繰り返すだからである。人間の失敗はカルマであり繰り返すということである。それは個々人でもそうであり国家でもそうでありだから歴史を学ばねばならないのである。また真実を後世に伝えねばならないのである。
●歴史の証人になる意義
1. 出来事を“生きた”人
戦争、災害、革命、社会変動などを実際に体験し、
その体験を語ることができる人々。
2. 記録の外側を伝える存在
公文書や新聞には残らない、
・恐怖
・喜び
・葛藤
・日常の細部
といった「生の感情」や「肌で感じた現実」を伝える。
3. 歴史の継承者
証言は、後世が同じ過ちを繰り返さないための重要な手がかりになる。
特に戦争や災害では、証言が社会の記憶を支える。
4. 時代そのものを体現する存在
その人の人生が、時代の構造や価値観を映し出す。
個人の物語が、社会の大きな流れとつながる。
公文書や新聞には残らない、
・恐怖
・喜び
・葛藤
・日常の細部
といった「生の感情」や「肌で感じた現実」を伝える。
これはマスコミや官報では伝えられないし残らない、すると誤って歴史を見るから真実が隠されて美化されたりすると危険である。戦争は意義がありいいものだったとみることもありそれがまた戦争になる危険を孕んでいる。死者は美化されやすいのである。
恐怖、喜び、葛藤、日常の細部ーこれが語られること読むことが大事になる、でもこれを読み込むことは難しい、古文書でも読むのが困難でありそれは学者がすることになる。
原発事故の恐怖は放射性物質汚染の恐怖であり、また葛藤は原発は金になるということで反対できないという葛藤である、また喜びは手厚い補償金を避難区域ではもらったことである。そのことは公にできないものである。被害を強く訴えれば訴えるほど補償金でも高くなり国民の同情も得られるからである。被害者が原発事故でも補償金もらって喜んでいるとなると支援されなくなるからである。常に被害者として訴えていた方が支援されるし補償金でももらえるとなる。
こういうことは地元でないと実感できない、人間は実感することが本当に知ることである。だから事件があればその現場に行って実感して報道する
外国でも実感することが知ることである。百聞は一見にしかずとなる。
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