吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐の犯人は福島県石川町の人だった
【当時の時代は背景を知る・・・】
1963年(昭和38年)3月31日 - 16時30分 - 17時40分、東京・台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展(当時4歳。以下「被害者」という)が自宅近くにある台東区立入谷南公園(台東区入谷町)に遊びに出掛けていたが行方不明になった。両親は迷子を疑い警察に通報。新聞などで「誘拐」ではなく行方不明として報じられる。
吉展ちゃんの両親のもとに小原保から身代金50万円を要求する電話があり、両親が警察に相談しその後何度か小原保から電話がかかってきたことで録音することに成功しました。
4月1日 - 警察の聞き込みの結果、公園
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人である小原保は、事件を起こした1963年当時上野御徒町にて時計店の修理工をしており、多くの借金を抱えて生活に困窮していました。
親族にお金を無心するために故郷である福島県石川町に向かった形跡もあり、お金は借りられなかったため何とかお金を工面しようと焦っていました。
小原保は福島県の貧しい農家の出身で、11人兄弟の10番目の子供でした。
小学5年生の時に骨髄炎を患って片足を悪くした小原保は、座ってでもできる仕事として中学を卒業した後に時計の修理工として仙台の時計店で働き始めました。
その後上京し上野にある時計店で働き始めましたが、月給2万4000円では生活は苦しく時計を横流しして生活を補っていたところ時計店にばれてしまい解雇され無職となりました。
小原保はその後貴金属のブローカーやヒモなどをして生活していましたが、借金がかさんでいき次第に生活が困窮していきました。
東京オリンピックを翌年に控え、高度成長の真っ只中だった日本の闇を写したような事件だったと言えるかもしれませんね
月給2万4000円では生活は苦しく時計を横流しして生活を補っていたところ時計店にばれてしまい解雇され無職となりました。
小原保の故郷は福島県石川町
白井弁護士は受任すると、東京拘置所に通い、小原と接見を重ねた。金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だったという。
身の上話も色々聞いた。福島県石川町で貧しい農家の五男として生まれた小原は、子供の頃に患った病気のために正常な歩行ができず、いじめにも遭っていた。不遇な少年期は山に登り、山並みを眺めている時が唯一、気分が安らいだと語っていたという。
「私も子供の頃、母親の実家がある福島県の会津に疎開していて、当時はよく山に登っていました。その話をしたら、小原は心を開いたようでした」
月給2万4000円では生活は苦しく時計を横流しして生活を補っていた
その頃の金銭感覚で2万円はどのくらいだったのか?50万の身代金を払ったがこれは今の感覚では少ないと思った、身代金だと軽く一千万とか要求する
50万でも当時だと5百万くらいになっていたかもしれない
そのくらいもらわないとこんなきけんなことはやれなからだ
ともかく借金が犯罪に結びつくことが多い。
何故私がこの事件に注目したのかとなれば福島県の石川町に自転車で行っている
そこまで阿武隈高原をたどり行っている、そこは郡山市に近くても山また山の土地である。その山にまだ萬屋(よろづ)があり寄ったら味噌汁をご馳走してくれた
これは今時めずらしいことだった。何か昔の素朴なものがまだ残っていたからだとも見た。第一萬屋(よろづ)というのがなくなっていたからだ。山の村では店でも品物を仕入れるにも難儀でありそれで萬屋(よろづ)が貴重だった。
和装館 よろづ屋 南相馬原町本店
これなどももともとよろづ屋だった。ただ元の原町市だから辺鄙な場所ではなかった
そのころスーパーなどないから何でも屋になっていたのである
いずれにしろ事件は時代を写す鏡になる。ただその時私は東京の私立の大学生であり恵まれていた。その頃貧しい時代であり中学生でもその時から10年前は集団就職があり中卒で東京とかに働きに出た、団塊の世代はとにかく数が多い、でも高度成長時代でありその多い人達を吸収できたのである。ただこの人のように犯罪を犯す人もいた
犯罪の動機で一番多いのはやはり貧乏である。その時代はまだ貧乏な人が多かった。
それでも高度成長の波に乗った人達は豊かになっていた。だからこの時代でも明暗がありすべて時代のせいにはできない。高度成長の時代だから成功した人も多いとなる
この人は足が悪いとか個人的事情でうまくいかなかったようである
だからすべて時代のせいともならない、それでもその時代を象徴していたとはなる
なぜなら小原保は脚が悪いから障害者だった、すると今なら国の支援があり援助されていたとなるからである。
何か借金を返すために故郷に帰り金を無心に来たらしい、それで実家の納屋の倉の凍み持ちのあるところにいたとか外の藁の中で寝ていたとかなる。
母親がいたが母親とは会っていない、母親は息子のことを脚が悪いから不憫だと思い他より目をかけていたのである。だから別に親が冷たいとはなっていないのである
ともかく古殿から石川町がありそこから
いわき市に自転車で下ってきたことがある。ただ地理的に郡山市に近いから郡山市で働くということもあった。でもその頃は東京や静岡県の方に工場が多くそこで工員になった。その頃また地方では働く場がなく農家では出稼ぎに出ていた。その頃農業だけであは生活が成り立たなくなっていた。原発のある双葉とか浪江辺はその頃出稼ぎ地帯でチベットとも言われた、働く場がなく出稼ぎ地帯になっていた、それで地元で暮らしたいとなり原発が誘致された経緯がある。つまり貧困が原因でもあった。人間の主な問題が貧困にある。人間は経済で動く利益を求めて動く、それは変わりないのである
江戸時代でも江戸への出稼ぎがありムクドリと呼ばれていた。
ムクドリがしばしば登場しますが、「椋鳥」は冬の季語と定められています。江戸時代、江戸っ子は冬になると集団で出稼ぎにやってくる東北人たちを、やかましい田舎者の集団という意味合いで「椋鳥」と呼んで揶揄していました。俳人小林一茶は故郷、信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて、「椋鳥と 人に呼ばるる 寒さかな」という俳句を残しています。
こういうことがあった。それだけ出稼ぎ者がいたということである。歴史は繰り返すと言うがこれもそうだった。ムクドリは大群で群れて飛ぶ。だからいかに江戸でも出稼ぎ者が多かったかわかる。出稼ぎは慣れないと都会で家もなく働くのだから辛いとなる
でも家に帰れるからいい方だともなる。小原保は故郷に帰っても迎える人がいなかった
母親がいても会えなかった、それが時代が違っていてそうなっていた。でも共通な面はある。
いずれにしろこれも時代を象徴する事件だった。個人的事情もあるが時代背景をみないとわからない。それでも50年も過ぎると記憶もあいまいとなりその時代のことがわからなくなる。また忘れてしまうのである。
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