2025年12月25日

全国の城の俳句【人柱伝説の語るものー城から見る日本の歴史】

全国の城の俳句【人柱伝説の語るものー城から見る日本の歴史】

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弘前城門の古しも枝垂桜
上山城秋の一夜や泊る宿
青葉城石垣反りて燕来る
片倉氏白石城や秋没陽
井戸いくつ二本松城落椿
悲しきや乙女桜に小峰城
小田原城天守に望む春の海
海望み小田原城や花盛り
花盛り小田原城の門を入る
吉田城橋にもたれて春の風
名古屋城海の涼風金の鯱
松江城茶にもてなすや春の暮
籠城に井戸を備えて冬の城
福山城天守に人や花盛り
春光や波よせひびく唐津城

青葉城石垣反りて広瀬川ひびき流れて朝桜映ゆ


小峰城の人柱伝説は、城の石垣が何度も崩壊し、人柱を立てることになったという悲劇的な出来事に由来しています。最初に城に来た者として選ばれたのは、作事奉行の娘おとめです。おとめは父に会うために訪れた際に、父の手で「来るな」と合図されたにもかかわらず、逆に「来い」という合図と勘違いし、捕らえられてしまったのです。この事件を悼んで、おとめが埋められた場所には「おとめ桜」と呼ばれる桜が植えられました。現在の桜は二代目で、初代は戊辰戦争の際に焼失しています

城が何を語るのか、一つは建築の美として見る、またそこにはそれぞれの物語がある
何か人は残る物から昔を歴史を観る,それはわかり安いからである
古墳があればやはり古代を偲ぶ、そこには確かに人が葬られている。でもそこに残された物語がある。それが様々でありわかりにくい。城ならば一目見て立派だとわかる。
それは外国人でもわかる。いろいろ城を説明されてもピンとこないだろう。それは外国になるとそこに籠められた歴史が複雑でわかいにくい。
でも城に人柱伝説があるのはいかに城を作るのが大事業だったかを物語る。城の石垣が何度も崩壊して人柱を立てたというのもそのためである
そもそも今でも巨大なビルでも建てれば工事で事故で死ぬ人も多い
するとそもそもがそれは人柱だったともなる。他にも工事では人が死ぬ

人柱というとき普通の家でも私の家でも半年くらいかかり建てた。城となると十年くらいかかったとかありいかに時間と労力をかけたかを知る。つまり何でもそうだがこの世にある物は建築物でも時間と労力をかけている。つまり人柱という時それぞれの家でもそうなのである。何か神道では死者を一柱二柱とか呼ぶ

死者を「一柱」と呼ぶ理由は、古来より神と深い関わりがあったと考えられていることに由来しています。神は自然物に宿るとされ、特に「大木は神が宿るモノ」として重要視されています。柱の形状は地面から天に向かって垂直に立っている姿から、「神が降りて来る為の通り道」としての役割を果たしていたと考えられています。イザナギとイザナミが葦原中国に降り立った時に初めに立てた天御柱(あめのみはしら)は、神と柱の密接な関係を象徴しています。 


松江城約4年
大阪城(豊臣秀吉)約15年
名護屋城数か月で完成と伝わる
松山城約25年

盛岡城
1597年〜1615年頃  
→ およそ18年ほど


この年月をみればいかに時間と労力をかけたかわかる。現代だと重機を使うから工期も短い。第一石垣を作るのにもその石を運ぶのでも人力となると大変な労力になる。
ただそうした苦労を偲ぶことが今になるとむずかしい、それは現代から過去を見るからそうなる。そこに歴史を知る錯覚が生まれる。何か簡単に作られたとも見る
その苦労が偲べないのである

日本の城でもそこには何か精神的なものを象徴している。なぜ天守があるのか?
それは殿様がいて家臣がいる。縦軸の人間支配のためだともなる。頂点に殿様がいてその下に家臣がいて城を守る。でも戦で負ければ殿様が天守で切腹して終わる
それは武士としての覚悟でありそれが城に反映された造りとなる
松江城の天守に井戸があった。それは籠城のために作られた。他でも場内には井戸があったのは籠城のためである。
それは外国の城とは違った精神性が歴史がある。外国の城は市自体が壁に囲まれてその中で敵が攻めてきたら生き抜く構造である。市全体が城にもなる
だから目立つのは城壁なのである。城壁が頑丈であり市民を守る。そこで王様を守るともならない、そこにシテズンシップが生まれたのである
平原のような所では遮る物がないすると大軍が攻めて来るから強固な壁を作り防ぐ、日本の城は山城であり平山城から平地の城になった。山が多いからそうなった。

日本の場合は城があってもそこに住民とは関係ないとまでなる。侍は関係しても関係しない、城が燃えてもそれほど感じない、かえって会津ではその時年貢で苦しめられたからヤーヤー一揆が起きた。庶民にとっては農民は年貢が少なければいいのであり領主でも年貢を高くすれば不満になる、それで城主が変わることことで年貢が少なくなれば返っていいとなっていたのである、だから会津で城が燃えてそれを見て白虎隊の自刃があったが庶民はそれほど感じなかったのである。この意識の差は大きいと思う
侍と庶民は別だったのである。

ともかく日本だとどこでも城を見る、そこから歴史を観る、だから城から歴史を偲ぶ
白石城は丸森から行くと近い

金山城は標高117メートルの「お舘山」山頂にある山城で、1564年(永禄7年)[3]または65年(永禄8年)[1]に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された

天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。

金山城は相馬藩と伊達藩が交互に城主となっていた境の城である
白石城も蒲生氏郷の会津藩との境にあった。地理的に境を知ると見えてくるものがある。そこに興亡があり歴史が記されるからである。



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